五輪やフェンシングの魅力について語る池田めぐみさん(H10卒)=米沢市

パリ五輪・パラリンピックの開幕を前に、フェンシングの女子個人エペでアテネ・北京の両五輪に出場した池田めぐみさん(44・H10卒)=南陽市=による、五輪の魅力を紹介する授業が20日、米沢市の学習塾ESTEM米沢校で開かれた。子どもたちが五輪の楽しみ方やスポーツが持つ力を学んだ。

小学1~6年生6人が受講。池田さんは自身が五輪を目指すきっかけになったのが、子どもの頃に見たロスアンゼルス五輪の開会式だったとし、開会式の各国選手の衣装や聖火台への点火方法などの見どころを紹介した。

過去の五輪の一場面を紹介しながら、「スポーツは『相手』がいないとできない。対戦相手を敵と見なさず、尊重するという姿勢がある」と、スポーツの魅力を語った。パラリンピックの選手が使う車いすのように、順位を競うことによって技術が進化し、日常でも誰かの支えになっている例があることを解説した。

飯豊二小3年小林実千花さん(8)、仙台市片平丁小3年遠藤理紗子さん(8)は「開会式の衣装や聖火台への点火方法、フェンシングの試合が楽しみ」と話した。

エネルギーを生む装置・日曜随想より

私にフェンシングを教えてくれたのは、米沢興譲館高校で当時教員をされていたフェンシング部顧問の小原秀樹先生(体育)と井上正博先生(数学)でした。部活には10人の同級生、先輩や後輩、そして熱いOB、OGの方々がおり、共に過ごした3年間はとても楽しく、かけがえのない時間でした。

一体どんな日々を過ごしていたのか振り返ってみると、平日の練習時間は長くて2時間半ほど、冬場になると2時間ほどでした。先生たちからの指導は極めて実践的で、特に、日本代表として当時活躍していた小原先生の技術と戦略は、卓越して洗練されていたものでした。第一線で活躍しながらも、そのノウハウを惜しみなく当時高校生だった私たちにも落とし込んでくれたことは、今思い返してもすごいことだったと思います。

この時間に培われたものは、間違いなくその後のフェンシング人生の財産となりましたが、さらに言うと、先生たちから声を荒らげられたり、怒られたり、否定されたりすることは、ただの一度もありませんでした。大体は「自分ではどう思った?」「じゃ、次はどうすればいいと思う?」と問いかけてきて、まずは私の考えを引き出してくれる。そして、その考えを聞いた上で決して押しつけずにちょっと頑張ればできそうなアドバイスを先生はくれて、それに自分が納得したらチャレンジする―。そんな感じでした。また、週末に練習試合に行ったことはなく、1年間に出場する大会なども両手で足りるくらいだったと記憶しています。

これを読んでいる読者の方は「あり得ない!」と思う方もいらっしゃるかと思いますが、本当に何時間も厳しい練習をしたわけではなく、ガンガン練習試合を重ねたのではなかったのです。

ただただ仲間たちとともにフェンシングを楽しみ、過剰な練習もありませんでした。それでも質の高い練習を繰り返し、私たちはスポーツを通してすこやかに体と心を育んでもらえていたのです。

きっと一番大事だったのは、選手である私たちのモチベーションが決してつぶれず、無駄な邪魔をされず、リスペクトの気持ちを忘れることなく指導を受けられたことだと思います。その結果、純度の高いエネルギーを生み出す装置を、私たちはスポーツを通して手に入れることができたのではないかと思います。そしてスポーツに限らず、いろいろな世界へ羽ばたいていった先生の教え子たちは、きっとどこかでその装置を今でも使っていることでしょう。

実は今回、今月末から始まるパリのオリンピック・パラリンピックを中心に書こうかと思っていました。しかし、何度書いても、いまいちしっくりこず。そこで頭の中を棚卸しして整理してみたら、私にとってオリンピックのフェンシングの話は、小原先生との話だったことに気が付きました。

出会いから長い長い物語が始まっていたのに、先生が天国に旅立ってからそのことに気が付くなんて・・・。なんて私はアホなのでしょう。もう一緒に話すことも、剣を交えることもかなわなくなりましたが、先生が残してくれたフェンシングをしながら剣と剣でしてきた会話の内容、それが残っている手の感触、過ごした時間、与えてくれた影響は、これからも私を含め、先生の教え子たちの心や記憶の中でずっと生き続けていきます。

私はフェンシングを教えるという選択肢を選ばなかったので、先生から教えてもらったことを誰かにつなげていくことはできませんが、純度の高いエネルギーを生み出す装置の存在を多くの人に伝えていくこと、先生との物語を話す機会を多く持ち続けていきたいと思います、それがスポーツの価値を高めることになると信じて。

パリのオリンピックとパラリンピック、まもなく始まります!

(南陽市)

2024年7月21日山形新聞より