ご紹介いただきました同窓会会長の小嶋です。
本日は米沢興譲館高校創立百三十八周年誠におめでとうございます。
数年にわたってコロナ禍によって世界中が多大なる影響と被害を受けてきました。皆さんも苦労してこられたと思います。昨年からようやく制限が緩和され人々が活動をはじめ、いろいろな会合が再開されるようになりました。飲食店にもお客さんが戻ってきて、観光のお客様も動き始めて、各地が賑やかになってきました。ようやく日常が戻ってきたようです。皆さんも勉強に、部活に励めるようになったのではないでしょうか。
さて毎回申し上げていますが、皆さんはすでにご承知の様に、興譲館という名前は江戸時代の米沢藩の藩校の名前を継承しています。米沢藩第九代藩主上杉鷹山公が藩校を復活し、細井平洲先生の推奨で興譲館と命名されました。鷹山公は「教育は国を治める根本」とのお考えのもと、国造りは人造りからと藩校興譲館を復活されました。
米沢における上杉家ではその長い歴史の中で不遇のときや困窮のとき、これからどうしようというときに、何時も学校を興しています。
① 関ヶ原合戦の戦後処理として徳川幕府によって景勝公が百二十万石から三十万石に減封されたとき
② 四代綱憲公のとき三十万石から十五万石へ減封されたとき
③ 鷹山公が藩主になられる直前に藩を幕府に返上しようかというぐらい窮乏したとき
このとき設立されたのが藩校興譲館です。
④ 戊辰戦争で敗れてこれから生きる道をどう求めるべきかというときです。
特に、戊辰戦争後の明治四年にそれまで米沢では蘭学を盛んに学んでいましたが、これからは英学の時代になるとの判断から、英学指導のための洋学校を興譲館内に創設しました。当初慶應義塾より福沢諭吉門人の三名の英語教師が迎えられました。
その半年後に英国人のチャーリー・ヘンリー・ダラスを教師として招聘(ショウヘイ)しています。ダラスは明治八年まで興譲館で教鞭をとりました。その後明治十一年までに六名の外人教師が米沢に招聘されました。
この時の洋学校の設立が後に米沢から偉大な人材を大勢輩出するもとになっています。
大英断でした。
この様に米沢藩の学校は政治的にも経済的にも困窮した時に起こってきていることに特徴があります。
大変な困窮に直面した時、日常の暮らしもままならないような大変な時に、藩の困窮を救い将来の繁栄のためにはまず人づくりが最も大切であると考えて教育に取り組んだものと思われます。私は先人たちがこのような考えをしてこられたことは大変素晴らしいことだと思っています。
その精神が表れているのが現在の興譲館高校校歌の三番の歌詞です。
人みなの命をあがめ
わが力わが誠
世の為に尽くさんこれぞ
ああ興譲 興譲のわれらが心
この様な思いがこもった興譲館という藩校の名前を現在の米沢興譲館高校が継承していることは大変意義深いことだと思っています。
米沢興譲館高校は、二年後の令和八年に藩校創設二百五十周年と本校創立百四十年の記念の年を迎えます。現在、学校と同窓会で記念事業を検討しているところです。この機会に過去を振り返り、過去に学び、更に未来へ目を向けて、本校が益々栄えていけるように関係者が力を合わせ尽力していきたいと考えています。
在校生の皆さんに於かれては益々学業に励まれ、未来への大きな可能性を秘めた十代の三年間を仲間と共に切磋琢磨して、しっかりとした自分を作り上げていかれるようにと心から念願しています。
最後に米沢興譲館高校の更なる隆盛と、生徒の皆さんの健闘と、先生方と職員の皆さんのご活躍をお祈りいたしお祝いの言葉とさせていただきます。