本書には、著者の錦啓氏(南陽市・S38卒)がこれまでに山形新聞紙上に発表したコラムと随想が収録されている。そのうちコラムは、「気炎」欄に2011年から24年までの14年もの長きにわたって掲載されており、この執筆に当たって著者が用いた「天見玲」というペンネームも、本紙読者になじみの深いものだろう。
今回、書籍に収録されたコラム459編を改めて読み直すと、基地移転問題、消費税引き上げ、ロンドン、リオ、東京までの各オリンピック、新元号の制定、そしてコロナ禍と外出自粛など、いずれもその時々に大きな話題となったにもかかわらず、いつしか思い出すことも減っていった数々の出来事が、行間から浮かび上がった。教師として長く務めた著者の経験を反映して、国際学習到達度調査(PISA)やセンター試験の廃止と共通テストの導入、そして各地で起きたいじめ事件など、教育に関わる話題も多く取り上げられている。同様の立場でこの14年を山形で過ごした者として、新聞を片手にああでもない、こうでもないと、あれこれ議論をした折々の思い出を胸中によみがえらせたところである。
「書くとは人とつながることだ」と著者は言う。実際に、読者からの反響を得て、コラムの内容が次のコラムへと広がり、つながっていくという事例を、本書の中にいくつか見ることができる。最も印象深いのは、2014年に取り上げられた、終戦間近の岩手県釜石に撃ち込まれた艦砲射撃の音が本県でも聞こえた、というエピソードだ。南陽でその音を聞いたという著者の母の記憶を伝えるコラムに対し、上山でもその音を聞いた、という読者からの証言が寄せられ、結果として、当時の山形県民が体験した状況が、身体的な感覚を伴って再現される。これは「つながる」ことによって地域の記憶が立ち上がり、共有・継承されていった事例だった。
近代山形でさまざまに行われた地方文化運動が目指したのは、一人一人が書き手/読み手となって互いにつながり、経験や知識を共有し、地域をつくり上げていくことだった。山形県の文化史に関心を持つ読者はすでにご存じのことだろうが、著者の父は「蜘蛛百態」で日本エッセイスト・クラブ賞を受賞した錦三郎であり、本沢村に文庫を設置して、真壁仁をはじめ多くの青年たちの文化運動を支援した横尾健三郎は著者の伯父にあたると聞く。(書肆犀・3300円)
評者:森岡卓司・山形大人文社会学部教授、山形市
2025年2月12日山形新聞より
錦 啓(=筆名:天見玲)コラム集『窓辺の足音』
書名『窓辺の足音』にさしたる意味はない。「気炎」のなかに「足音」「窓」と題したコラムがある。この二つを強引に結びつけただけなのだが、窓辺の机に座っていると何者かが近づく足音が聞こえる。その正体を確かめようと耳を澄ます。その一瞬の緊張感が短いコラムを書いたり、読んだりする緊張感とどこか通じるような気がして名付けたまでである。(「はじめに」より)
第Ⅰ部 「日曜随想」2007年Ⅰ月~12月
第Ⅱ部 「気炎」 2011年9月15日~2024年7月13日「気炎」を書き続けているうちに「気炎」が私の生活の中に浸透し、生活と「気炎」が侵食しあい、一体となった。いや、「気炎」が生活の中に根を下ろすようになったと言ったほうがよいかもしれない。
書肆犀ウェブサイトより
「いいコラムを書きたい」という欲望が生活の優先事項、いわば核となったのである。本を買うのも読むのも、新聞を読むのも、テレビを見るのも、他人の話を聞くのも、演奏を聴くのも「いいコラム」を書くためという意識がまとわりついて離れなくなってしまった。しかし、これは悲しい出来事ではなかった。むしろ私に生きがいを与えてくれた。少なくとも「気炎」は生活のアクセントとなった。
私の晩年に「気炎」執筆の機会を与えてくださった山形新聞社に心から感謝している。「気炎」執筆は私のわずかな才能を引き出してくれた上、生きがいと生きる喜びをつくってくれた。「気炎」を書くことは他の人の人生とつながることであり、わが人生を愛することに他ならなかった。もし書く機会を与えられなかったらどこかに欝々とした気分を抱えたまま人生を終えていたと思えてならない。そうした意味でも書く機会をいただいたことはまことに幸運であり、ありがたいことだった。 (「おわりに」より)