連綿と やまがた旧家・名家探訪 「宮坂家」上
創業当時から培ってきた煮炊きの技を生かした鯉料理や総菜を扱う「みやさかや」の店舗=米沢市 「宮坂鯉店」または「鯉の宮坂」として長年親しまれてきたタスクフーズ(米沢市)の「みやさかや」の創業は、1849(嘉永2)年である。
さかのぼること31年前、18(文政元)年、宮坂長三郎は、上杉家に仕える武士の三男として生まれた。宮坂家の先祖は、上杉家とともに越後、会津、米沢と移り住んできたとされる。
三男である長三郎は、宮坂家を出て、生計を立てるため神農会の庭主を務めた。庭主とは、行商人や旅人、テキ屋、香具師のために、営業場所と宿泊所をあっせんする世話人のことである。のちには元締にもなった。この役回りは、4代目長吉まで引き継がれた。そこには気前が良く、多くの人に好かれる親分肌の人柄が透けて見える。
長三郎の妻いさは、福田町にあった自宅の玄関を改装して「煮しめ屋」を始めた。これが、49年である。販売していたのは、鯉をはじめとする川魚の総菜である。以来、煮汁がなくなるまでじっくり煮詰める技が、「みやさかや」の神髄となった。養殖も創業当時から行っていたようである。
その後、仕出屋へ発展し、長三郎の長男である長太郎が2代目に就任した67(慶応3)年には、現在の相生町に店舗を構え、小売りも始めた。
1917(大正6)年5月、米沢が大火に見舞われた。自宅と店舗を焼失する憂き目にあったが、鯉の甘煮のタレだけは運び出して守った。2年後、大火が再び米沢を襲った際も、新店舗は焼け落ちたが、タレは守った。タレは、創業以来継ぎ足しながら続く、宮坂家の命である。
翌20年、長吉が4代目を継いだ。長吉は同名の3代目の三男である。4代目は、飲食業にも乗り出し、同所に鯉料理屋を開業した。この料理屋は昭和40年ごろまで存続していた。
お客さんの一角を占めていたのが、遊郭関係者である。「みやさかや」の裏には、かつて遊郭があった。
1886(明治19)年、城下の各所に散在していた貸座敷を1カ所にまとめてできたのが、福田遊郭である。「全国遊廊案内」(1930年)によれば、1917年の大火当時は、11件が営業していた。この遊郭の従業員や客が訪れていたそうである。
41(昭和16)年に4代目長吉が亡くなると、妻ちうが、経営を引き継いだ。長吉には9人の子どもがいたが、男子が3人戦死したこともあり、ちうは14年もの間、のれんを守ることになった。
宮坂家の歴史を振り返ると、度々女性が家の危機を救っている。現会長の宏さん(67・S52卒)は、「代々宮坂家の男は遊び歩き、女がしっかりしていた」と冗談めかして話していた。それが事実かは分からないが、思慮深く粘り強い女性が、宮坂家の家業を丹精してきたことだけは、議論の余地がない。
こうした宮坂家の鯉は、多くの著名人に愛されることになった。また米沢生まれの海軍軍人・今村信次郎が別当を務めていた秩父宮家でも味わわれていたそうである。東日本大震災までは、宮中三大儀式の一つ、天皇陛下の誕生祝賀午餐会に、宮坂の鯉料理が納められていた。
「みやさかや」の発展の裏には女性の力あり、である。
(原淳一郎・県立米沢女子短期大教授)
2025年12月8日山形新聞より




