直江兼続の禅林文庫から現在に至るまでの興譲館の歴史年表。

江戸時代

  • 元和4(1618) .7 直江兼続、学問所禅林文庫設立。
  • 元和5(1619) .12  直江兼続没。60歳。
  • 寛永13(1636).2  上杉定勝、佐野玄誉を儒職として招聘
  • 慶安3(1650)  北島瑞伯、儒医職兼帯として上杉綱勝に仕える
  • 寛文4(1664) .5 三代藩主綱勝急逝、吉良義央長男三郎を嗣子として迎え上杉家の名跡存続するも15万石に削封。
  • 寛文9(1669)  矢尾板三印、儒医職兼帯として出仕
  • 元禄3(1690) 五代将軍綱吉、儒学の振興を図るため湯島の地に聖堂を創建
  • 元禄10(1697).6  四代藩主綱憲、学問所を建立
  • 元禄10.11  聖堂(感麟殿)を造営   主宰矢尾板三印。
  • 宝暦3(1753) .12  上野東叡山根本中堂修理、仁王門再建工事手伝いを命じられる。(総工費57,457両余(領内、越後、上方の豪商より12,460両借財)
  • 宝暦5(1755) 奥羽地方大凶作。
  • 宝暦6(1756) .8  米沢地方大飢饉、松川中河原において飢饉者に粥を施す。一日1300人に及ぶ。
  • 宝暦10(1760) 秋月種美二男直松(鷹山)、上杉重定の養子となる。
  • 宝暦11(1761).1 上杉重定、細井平洲を招き聴講
  • 宝暦13(1763).2 竹俣当綱ら、二の丸会談所において森平右衛門利直を誅殺、君側の奸を除く。
  • 宝暦14(1764).1 藩主重定、版籍返納を岳父徳川宗勝(尾張藩主)に諮る。
  • 明和元(1764).11 藁科松伯の推挙で細井平洲(37歳)、世子直丸(鷹山14歳)の師範となる。
  • 明和4(1767) .4 重定隠居、治憲(17歳〉家督を継ぐ。
  • 明和4.9 治憲、自ら大倹の行として一汁一菜を実施、奥女中50余人を9人に減員
  • 明和4.12 大倹令布達。
  • 明和6(1769) .8 藁科松伯貞祐没。33歳。
  • 明和7(1770) .5 竹俣当綱、学館設立を発議。
  • 明和8(1771) .5 細井平洲米沢下向(第一次)。松桜館(興譲館の前身)において諸生18人に教授。神保綱忠(蘭室)松桜館長として平洲を補佐。
  • 安永元(1772).2 江戸大火、上杉家桜田・麻布両邸類焼。
  • 安永元.3.26  治憲 、藉田の礼執行
  • 安永2(1773) .7 七家騒動(保守派重臣七人の改革反対の直訴事件)
  • 安永4(1775) .12 莅戸善政を御用掛に任命、学館建設を開始。
  • 安永5(1776) .5.19 学館落成、細井平洲《興譲館》と命名。定詰勤学生20名、片山一積・神保綱忠を提学に任命。
  • 安永5.9.13 細井平洲、米沢下向(第二次)興譲館の学制を定め、『管子』弟子職の中の[学則」を揮毫。学館において書経を講じ奉行以下諸役人聴講する。
  • 天明2(1782) .10 竹俣当綱、罷免隠居押込みに処される。
  • 天明3(1783) 冷害のため諸国大飢饉、奥羽地方の死者多数。
  • 天明3.11 莅戸善政、辞職、隠居。
  • 天明4(1784) .7 藩主治憲備荒貯蓄20年計画を定める。
  • 天明5(1785) .8 治憲、治広に人君の心得三力条(伝国の辞)を贈って隠居。35歳。
  • 天明5.8 治憲揮毫の「先聖殿」扁額を興譲館聖堂に掲額。
  • 天明6(1786) 米沢を含め諸国大凶作、藩財政逼迫。
  • 天明7(1787) .7 財政逼迫のため提学神保綱忠を罷免、諸生20人を12人に減員。
  • 寛政元(1789).4 籍田の礼を再興。
  • 寛政元.7 神保綱忠提学復帰、諸生も20人に復帰。(この頃治憲の侍医堀内易庵の嫡子忠明、内村直則ら杉田玄白師事に続き、堀内忠明、宮崎元長、大槻玄沢の芝蘭堂入塾。米沢蘭学事始め)
  • 寛政2(1790) 寛政異学の禁(幕府、朱子学以外の学派を講ずることを禁止)
  • 寛政3(1791) .1 人材登用を断行。
  • 寛政3.5 中老莅戸善政、長期財政再建計画発表(「寛三の改革」)
  • 寛政4(1792) .7 平洲門人高山彦九郎米沢来遊、興譲館の諸士とも対談。
  • 寛政4.8 本草学者佐藤平三郎(成裕)を招き、薬草の栽培・製薬の方法を学ばせる。
  • 寛政5(1793) .4 竹俣当綱没、行年65歳
  • 寛政5.11 御国産所内に医学校(好生堂)設立、平田道宣を会頭に任じ、傍に薬草園造成。
  • 寛政6(1794) .1 世子顕孝(治憲の実子)天然痘にかかり江戸白銀邸で死亡。行年19歳。
  • 寛政7(1795) .6 「黒井堰」完成。
  • 寛政7.9 天然痘大流行、防疫のため江戸より津江柏寿を招き医療対策を講ず。患者数8,389、夭折者数2,064。
    「友干堂」改制。総裁職の「読長」を設置。通学生指導の徹底を図る。
  • 寛政8(1796) .8 神保綱忠、興譲館督学就任。
  • 寛政8.9 細井平洲(尾張藩明倫堂督学)三たび米沢下向、治憲、関根普門院に郊迎。平洲69歳、治憲46歳。
  • 寛政9(1797) 幕府、直轄学校として「昌平坂学問所(通称『昌平校』)」を開設
  • 寛政10(1798).6 学館主事服部吉弥(豊山)の建議で童生の試験を実施。
  • 寛政11(1799).4 旧片山邸の友干堂を興譲館構内に移し、友干堂を博習・敬業・弁士の三局とする。
  • 寛政11.8 治憲三日間学館に赴き諸生・寄塾生・友干堂助生・上座生の試業に臨席。
  • 寛政12(1800)藩主治広、興譲館の教育について細井平洲に諮問。
  • 享和元(1801).6 細井平洲没。74歳。
    藩医高橋玄勝(桂山)治憲の内意を受け長崎留学、蘭通詞吉雄献作に師事、蘭方医学を修め帰藩、藩主治広の御側医となる(長崎留学の嗜矢)
  • 享和2(1802) .10 莅戸善政編『かてもの』1,575冊を刊行、配布。
  • 享和2.10.29 治憲「鷹山」と号す。52歳
  • 文化3(1806) .12 好生堂を再興、総裁に飯田忠林有倫(幽澗)を任命。以来藩命による医学勤学が盛んになり、杉田玄白の斡旋でオランダ製外科器械を好生堂に設備。
  • 文化4(1807) .3 好生堂を興譲館構内に移転。
  • 文化4.12  青苧事件落着
  • 文化5(1808) .8 イギリス軍艦フェートン号長崎港闖入(フェートン号事件。幕府、長崎オランダ通詞に英語・ロシア語を学ばせる)
  • 文化6(1809) .10 鷹山、細井平洲 『櫻鳴館遺稿』に序文を自署、刊行。
  • 文化7(1810) .11 友干堂生の試業を実施。上杉斉定、秀逸生と懇談。
  • 文化9(1812) .9 治広隠居、斉定家督十一代藩主となる。
  • 文化10(1813).12 紅葉山御宮・御霊屋普請手伝い下命、3力年大倹令布達。好生堂廃止、友干堂一時閉鎖。
  • 文化13(1816).3 神保蘭室督学致仕。片山一興総監に任命。
  • 文化14(1817).1 大倹令で閉鎖の友干堂を再開。
  • 文政元(1818) 山田政章、興譲館総監となり、7月香坂昌直、興譲館提学就任。この頃より朱子学隆盛となり藩学の学風一変。
  • 文政3(1820) .8 学館大修理。
  • 文政5(1822) .3.12 上杉鷹山没。72歳。
  • 文政5.9 上杉治広没。59歳。
  • 文政6(1823) .12 領内270ヵ村、一粒一銭の滞納もなく年貢を完納。
  • 文政7(1824) .3 莅戸役宅を補修、好生堂を再開。
  • 文政9(1826) .6 友干堂建替え。
  • 文政9.8 神保蘭室没。84歳。
  • 文政9.10 江戸在府中の斉定、湊長安の投薬で難病快癒、以後西洋医学の認識改まり、蘭学隆昌の気運高揚。
  • 文政10(1827) 伊東昇迪、長崎鳴滝塾でシーボルトに師事。
  • 文政12(1829).9 好生堂舎屋、興譲館構内に新築。
  • 天保3(1832) 天保3~9年4回凶作、庄内・越後より米買入れや、大倹令発令。
  • 天保4(1833) .4 総監香坂昌直没。
  • 天保4.8 坂午松(蘭渓)興譲館提学就任。
  • 天保10(1839) 蛮社の獄(渡辺崋山・高野長英ら尚歯会グループ弾圧事件)
  • 天保13(1842) 安井息軒米沢来遊。
  • 天保14(1843) 堀内素堂、フーフェランドの医書を蘭訳本より漢訳、本邦初の小児科医書『幼幼精義』を著す。
  • 弘化2(1845).11 脱獄逃走中の高野長英米沢潜入、堀内素堂・伊東昇迪ら庇護。
  • 弘化4(1847) 頼三樹三郎米沢来遊。嘉永3年再度来り興譲館を視察。
  • 嘉永5(1852).3 吉田松陰、東北旅行の途次、米沢へ寄る。
  • 嘉永6(1853) .6 ペリー提督軍艦4隻を率い浦賀来航。
  • 嘉永6.7 ロシア使節プチャーチン提督軍艦4隻を率い長崎来航。(片山仁一郎、窪田茂遂(後興譲館提学)、使節応接係古賀謹一郎に随行、長崎に赴く)
  • 安政2(1855) .9 米沢藩、西洋砲術修業のため浅間厚斎らを江戸に派遣。
    この年、幕府洋学所(蕃書調所〉設立、オランダによる長崎海軍伝習。
  • 安政4(1857) 学館構内に友干堂を新築。
  • 安政5(1858 ).10 安政の大獄(橋本左内、頼三樹三郎、吉田松陰ら処刑)
  • 安政5.10 福沢諭吉、蘭学塾開設。
  • 文久3(1863) .1 浅間彰、興譲館総監となる。
  • 文久3.8 「八月十八日」の政変(公武合体派の宮中クーデタ)
  • 元治元(1864).4 米沢大火(1200戸焼失)、興譲館類焼。
  • 元治元.11 門東町講武所内に聖堂・学館・好生堂再建。
  • 慶応元(1865).1 窪田茂遂、興譲館提学就任。
  • 慶応元.12 京都警護のため世子茂憲上洛。
  • 慶応3(1867) .3 片山仁一郎、興譲館提学就任。
  • 慶応3.11 千坂高雅、家老に抜擢。
  • 慶応3.12.9 王政復古の大号令、列藩招集。同29日幕府から上坂の檄。藩主斉憲、興譲館諸生も含め各頭・諸役員に「上洛」「上坂」の是非を諮問。
  • 慶応4(1868) .1 鳥羽・伏見の戦(戊辰戦争突入)
  • 慶応4.2 会津討閥応援出兵の命下る。
  • 慶応4(9月8日改元).2 片山提学使者として国事に奔走、興譲館の学事は浅間元総監と窪田元提学が担当。
  • 慶応4.5 総督色部長門ら米沢軍越後出陣。
  • 慶応4.6 雲井龍雄「討薩の檄」
  • 慶応4.8 千坂総督、全軍に引き揚げを命ずる。
  • 慶応4.8 末元医学所洋学教授渡辺洪基、蘭方医三浦煥、松本良順に代わって米沢滞留。渡辺は英学、三浦は医療・医学教授を担当。(米沢英学事始)
  • 慶応4.9.2 米沢藩降伏。

明治期

  • 明治2(1869) .1 戦争中閉鎖され仮病院となっていた興譲館授業再開。渡辺洪基東京へ帰り、樫村清徳、洋学校仮塾長として英学指導。
  • 明治2.5 上杉麻布邸で内村良蔵・平田東助ら、慶応義塾教授吉田賢輔より英学教授。
  • 明治2.6 上杉茂憲、版籍を奉還。太政官の学校規則布達により大学校開設、開成学校・医学校がその分局となる。内村良蔵・平田東助は開成学校に、樫村清徳は医学校へ入学。
  • 明治3(1870) .6 小見親民(興譲館最後の)提学就任。
  • 明治4(1871) 興譲館構内に洋学舎設立、慶応出身の木村道之助・宮内赫助・滝川喜六ら3名を招き、13歳以上の学館生75名、年額10円の手当を受け修学。洋学教師の月給は140円
  • 明治4.7.14 廃藩置県、米沢県となる。「大学」を廃し文部省設置。
  • 明治4.9  米沢県庁「学校革新大旨」布達。皇学・洋学・医学・筆学・数学の5科を設置。皇学・洋学の2科にはそれぞれ10名の定詰勤学生(旧制の諸生)を置き学校経費から手当金を支給。小国・小松・宮内・荒砥・宮(長井)に郷校を設置。
  • 明治4.10 語学教師として英国人チャールズ・ヘンリー・ダラスを雇用。洋学舎を外国語学校と改称
  • 明治4.11 米沢県は置賜県と改称、興譲館は県費と上杉家寄贈の資金で維持運営され、学校掛斎藤篤信、総頭窪田茂遂、小見親民らは皇学科教授として運営。
  • 明治4.12 運営困難につき授業料徴収の布達。
  • 明治5(1872) .5  置賜県、学校制度を改正。洋学科生徒への手当支給を止め、皇学・洋学両科定詰勤学生を全廃。5科の教授を解任、ダラスの役宅・講堂・教官塾・友干堂以外を解体、講堂・教官塾を洋学科教場、友干堂を皇学科教場に充当。児童生徒は管内の東堤・西堤・松岬・花渓の4学校に移し、各校は本校(興譲館)よりの資金300円と授業料とで維持経営。五郷校についても同様。
  • 明治5.10 文部省通達で外国人教師雇入学校廃止、置賜県学の興譲館廃止。
  • 明治7(1874) 学館を旧米沢藩士協立として「私立米沢中学校」と改称。
  • 明治8(1875) 元提学片山仁一郎(一貫)を米沢中学校長に委嘱。
    俊秀生徒若干名に学資を貸与し、東京留学を復活。
  • 明治9(1876) .8 置賜・鶴岡・山形三県合併、「山形県」誕生。初代山形県令三島通庸。
  • 明治9.9 太政大臣三条実美、米沢中学校視察。
  • 明治10(1877).3 古藤伝之丞、米沢中学校長就任。
  • 明治11(1878).3 米沢中学校、給費制度(15名に学資支給、寄塾勤学を許可〉設ける。
  • 明治11.10 山形県師範学校開校。初代校長斎藤篤信。
  • 明治12(1879).2 山形県会開設(初代議長五十嵐力助)
  • 明治13(1880).9 興譲小学校内に南置賜郡中学校(公立正則中学校)を併設。
  • 明治14(1881).6 綱島哲米沢中学校長就任。
  • 明治14.10 明治天皇東北巡幸。
  • 明治14.12 米沢中学校、屋代町上ノ丁元置賜県庁舎に移転。
  • 明治18(1885).6 上杉家拠出の一万円と有志の寄付を資金として米沢教育会発足。
  • 明治19(1886).4 小学校令・中学校令・師範学校令・帝国大学令公布。
  • 明治19.9.19 北堀端片町に米沢中学校新校舎落成。士族会長池田成章学校管理者(初代校長)に就任、中学校令に準拠して教科目を定め修業年限を5力年とし、安永5年興譲館開校の日をトして開校式を挙行(本校創立記念日の由来)

池田成章 学校管理者(初代校長)

  • 明治20(1887).11 米国人J.G.クリーヴランド(美以教会宣教師)を英語教師に迎える。
  • 明治21(1888).11 文部大臣森有礼、米沢中学校を視察、上級学校資格付与の条件について談話。
  • 明治22(1889).1 米沢英和女学校開校、女子教育に先鞭をつける。校長ミス・ワトソン
  • 明治22.2 鈴木千代吉(甘糟継成二男)第2代校長就任。

鈴木千代吉 第2代校長

  • 明治22.2 大日本帝国憲法発布。
  • 明治22.4 米沢を南置賜郡より分離、市制を施行。初代市長大瀧龍蔵。
  • 明治22.10 古藤伝之丞第3代校長就任。

古藤伝之丞 第3代校長

  • 明治22.11 伊東忠太ら発起して有為会(明治25年米沢有為会と改称)発足。
  • 明治23(1890).10 教育勅語発布。
  • 明治26(1893).5 山形県知事の管理下に移し「米沢尋常中学校」と改称。古藤伝之丞臨時校長事務取。
  • 明治26.6 坂田伝蔵第4代校長就任。

坂田伝蔵 第4代校長

  • 明治26.8 第1回卒業式挙行(8名)
  • 明治27(1894).8 清国に宣戦布告(日清戦争)
  • 明治27.12 天皇・皇后の御真影下賜。
  • 明治28(1895).5 米沢尋常中学興譲館と改称。
  • 明治30(1897).7 第5学年生徒京浜地方に修学旅行実施。
  • 明治30.8 安並正也第5代校長就任。

安並正也 第5代校長

  • 明治31(1898).2 館友会(興譲会の前身)発足、『館友会雑誌』第1号発刊。
  • 明治31.5 松岬公園で春季技芸運動会実施(以後恒例行事となる)
  • 明治31.6 白布高湯・小野川・赤湯の三湯回り運動会開催。
  • 明治32(1899 .5 吾妻(西大巓)登山実施。
  • 明治33(1900).4 県立となり「山形県米沢中学校」と改称。
  • 明治33.4 松山亮第6代校長就任。関東町新校舎新築工事着工。

松山亮 第6代校長

  • 明治34(1901).4 「山形県立米沢中学校」と改称。
  • 明治34.9  新築校舎に移転開校式挙行。(土地購入・建築費合計7万1,000円、35年講堂、36年生徒昇降口等完成、総工費8万3,600円)
  • 明治35(1902).4 卒業生対象に上級学校進学の補習科設置(明治40年廃止)
  • 明治35.9 成島山において植樹運動会実施。
  • 明治36(1903)この頃野球部発足、山形師範、山形中学と対校試合実施。
  • 明治37(1904).2 ロシアに宣戦布告(日露戦争)
  • 明治37.9 「戦時記念林」を創設。
  • 明治39(1906).11 「戦時記念林」を財団法人とし「米沢中学校興譲会戦時記念造林財団」と称す・
  • 明治41(1908).3 松山亮校長、教育功労者として文部大臣より表彰。
  • 明治41.9 東宮殿下(大正天皇)行啓。(校旗制定、記念館建設を計画)
  • 明治42(1909).6 五年生(43名)仙台方面修学旅行の帰途赤岩駅付近で列車転覆事故に遭遇、7名負傷。この事故に際し本校生徒遭難者救護に活躍、8月27日逓信大臣兼鉄道院総裁後藤新平来校、学校長に謝意を表明。
  • 明治44(1911).9 行啓記念館落成。この年、文部省令により武道(剣道・柔道)を課す。

大正期

  • 大正元(1912).2 体育運動の一部としてスキーを採用。
  • 大正元(7月改元)7 「米沢中学同校会」を組織。
  • 大正元.10 下平忠良第7代校長就任。

下平忠良 第7代校長

  • 大正3(1914) .2 米沢中学同校会を「米沢中学同友会」と改称。
  • 大正3.7 第一次世界大戦。
  • 大正5(1916) .9 創立30周年記念式典挙行。
  • 大正5.9 下平忠良100円を興譲会へ寄付(下平奨学金)
  • 大正6(1917) .3 上泉奨学金(1,500余円)の内1,000円を興譲会へ寄贈。
  • 大正6.3 石原初太郎第8代校長就任。

石原初太郎 第8代校長

  • 大正6.5 高等予備科を設置。
  • 大正8(1919〉.1 上級学校入学模擬試験(英数国)実施。
  • 大正8.6 添野信第9代校長就任。

添野信 第9代校長

  • 大正8.9 創立記念式後、上泉直蔵先生祭典を挙行、この日上泉奨学金寄贈完了。
  • 大正9(1920).1 (上泉奨学基金、下平奨学基金、興譲会戦時記念造林財団、宮島義男寄付金2,000円を資金として)「山形県立米沢中学校興譲会奨学財団」設立。
  • 大正11(1922).1 県下中等学校武道大会出場、剣道は〈良好>、柔道は〈抜群〉を受賞。
  • 大正11.5 葛原運次郎第10代校長就任。

葛原運次郎 第10代校長

  • 大正11.5 興譲会事業の奉安殿工事竣工。
  • 大正11.11 南置賜郡教育会主催理化学講演会を本校で開催。
  • 大正13(1924).8 本校野球部、全国中等野球大会東北地区予選大会に出場、福島師範、秋田商業、一関中学を連破、決勝戦において秋田中学と対戦、惜敗。
  • 大正14(1925).4 江口親明第11代校長就任。

江口親明 第11代校長

  • 大正14.4 陸軍歩兵大尉相田俊二(明治41年卒)本校配属将校として赴任。
  • 大正14.10 東宮殿下台臨、本校校庭において一市三郡男女中等学校生徒を親閲。
    興譲会では行啓記念碑「霊址」の建設を計画。
  • 大正15(1926).2 山形歩兵第32連隊長倉茂三大佐、本校教練の査閲を執行。教練査閲の始。
  • 大正15.5 私立米沢中学夜学校開校式。
  • 大正15.9.19 創立40周年記念式典挙行。矢尾板三印・片山元・細井平洲・神保蘭室・池田成章の五師を祀る先師祭を執行。
  • 大正15.10 行啓記念碑「霊址」除幕式挙行。
  • 大正15.11 第5学年生徒、山形歩兵第32連隊において営内宿泊訓練を実施。

昭和(戦前)期

  • 大正15(1926).2 山形歩兵第32連隊長倉茂三大佐、本校教練の査閲を執行。教練査閲の始。
  • 大正15.5 私立米沢中学夜学校開校式。
  • 大正15.9.19 創立40周年記念式典挙行。矢尾板三印・片山元?・細井平洲・神保蘭室・池田成章の五師を祀る先師祭を執行。
  • 大正15.10 行啓記念碑「霊址」除幕式挙行。
  • 大正15.11 第5学年生徒、山形歩兵第32連隊において営内宿泊訓練を実施。
  • 昭和2(1927) .6 校歌制定(「盆地米沢」)作詞五十嵐力、作曲弘田龍太郎。
  • 昭和2.10 『米沢藩学問所・興譲館・米沢中学校年志』を刊行、侍従武官今村信次郎(海軍少将)より天皇へ献上。
  • 昭和3(1928) .5 卒業生有志「第一義」扁額を寄贈。(講堂に掲額)
  • 昭和4(1929 ).1 「山形県立米沢興譲館中学校」と改称。
    米沢中学夜学校に教練科を特設。
  • 昭和5(1930) .3 米沢中学夜学校、第1回卒業を記念して『友干』を創刊。
  • 昭和5.7 大野芳麿第12代校長就任。

大野芳麿 第12代校長

  • 昭和5.10 第4、第5学年生徒、米沢方面実施の第四旅団の野外演習に参加。
  • 昭和5.10.30 教育勅語渙発40周年記念式挙行、以後同日に勅語捧読式恒例となる。
  • 昭和5.12 文芸会を弁論の外、国文・漢文の朗読、英文・英詩の暗唱、英語対話、理科実験、音楽演奏等を含めて実施。
  • 昭和6(1931) .2 雪中行軍、兎狩りを実施。
  • 昭和6.5 放課後一時間、興譲会各部の運動を実施。
  • 昭和6.9 満州事変勃発。
  • 昭和6.12 満州派遣隊慰問特集『興譲会報』発刊。
  • 昭和7(1932) .4 寄宿舎(自治寮)を廃止、食堂を改修剣道場建築。
  • 昭和7.6 愛宕山事件(上級生200名某教諭排斥と新購入ピアノの決算報告をめぐりストライキ、郊外の羽山に立てこもる)
  • 昭和8(1933) .1 本校スキー部山形県地方予選大会優勝、以後八年連続制覇。
  • 昭和8.2 戸田貫一第13代校長就任。

戸田貫一 第13代校長

  • 昭和8.5 「国際連盟離脱ニツイテノ詔書」捧読式。
  • 昭和9(1934) .3 建武中興六百年記念式挙行。
  • 昭和9.4 放課後の課外講習を正科に準じて必修とする。
  • 昭和9.6 英語・国漢・数学三教科の実力考査(下級生3回、上級生5回)の制設定。
    陸軍省令・文部省令により夜学校生徒に兵役上の特典付与。
  • 昭和11(1936).1.18 午後零時五十分、豪雪(積雪260cm)のため講堂倒壊。第九回全日本学生スキー大会米沢開催のため、生徒は市街地の雪踏作業に出動中で負傷者なし。
  • 昭和11.5 岡田賢輝第14代校長就任。

岡田賢輝 第14代校長

  • 昭和11.9 新講堂落成。創立50周年記念式典挙行。
  • 昭和11.10 本校校庭において秩父宮殿下親閲分列式挙行。
  • 昭和11.11 糠ノ目・窪田・塩井間で全校生徒発火演習。
  • 昭和12(1937).3.16 岡田賢輝校長死去、同月20日校葬執行。
  • .3 三浦三義人第15代校長就任。

三浦三義人 第15代校長

  • .7 支那事変(日中戦争)勃発。
  • 昭和13(1938),6 文部省通達で勤労奉仕活動始まる。
  • 昭和14(1939).3 文部省 、勤労作業の恒久化と準正課扱いを指示。
  • 昭和14.3 岩淵勝郎第16代校長就任。

岩淵勝郎 第16代校長

  • 昭和14.5 米沢高工校庭における体操祭に参加。近郊農村に全校生勤労奉仕。
  • 昭和14.5.22 学校配属将校15年を記念して宮城前で御親閲式挙行。岩淵校長、鈴木吉郎・黒田富雄両教諭、5年勝見嘉美・近野正・米持文夫ら10名参加。
  • 昭和14.5 「青少年学徒二賜ハリタル勅語」捧読式挙行。
  • 昭和14.6 市内応召家庭への勤労奉仕(5年生、3年生)
  • 昭和14.6 三沢・塩井・広幡・六郷4か村へ勤労奉仕。
  • 昭和14.6 4・5年生八幡原方面において一泊野外教練実施。
  • 昭和14.7 全校生徒鬼面川改修工事勤労奉仕(5日間)
  • 昭和14.10 三沢・塩井・広幡・六郷4か村に稲刈り勤労奉仕。
  • 昭和14.11 県下高等学校・専門学校連合野外演習に参加。
  • 昭和14.11 八幡原飛行場で海軍練習飛行隊歓迎。
  • 昭和15(1940).5 4年生関西方面へ修学旅行(本校最後の修学旅行)
  • 昭和15.6 市営グランド造成勤労奉仕。
  • 昭和15.6 4・5年生八幡原方面で一泊露営の野外演習。
  • 昭和15.7 防空演習。市営グランド造成勤労奉仕。
  • 昭和15.10 大政翼賛会結成並に三国同盟締結祝賀の連合市内行進に参加。
  • 昭和15.10 出征遺家族宅へ勤労奉仕。
  • 昭和15.11 紀元2600年奉祝記念式挙行。国民体力法体力検査実施。
  • 昭和16(1941).4 学校誌『興譲』発刊。用紙統制により以後休刊となる。
  • 昭和16.5 千喜良英之助第17代校長就任。

千喜良英之助 第17・19代校長

  • 昭和16.6 米高工・米中・米工・米商の滑空部合同グライダー講習会を八幡原飛行場において実施、米沢高女も参加。
  • 昭和16.12.8  大東亜戦争(太平洋戦争)勃発。
  • 昭和17(1942).2 米沢武官養成会と呼応し陸士・海兵等軍学校志願者で干城会を組織。
  • 昭和17.9 全校生稲刈り勤労奉仕。
    この年より野球・卓球・テニス・バスケ・バレー等球技廃止され、剣道・柔道・銃剣術・グライダー部等が全盛となる。
  • 昭和17.10 米沢地方中等学校教護連盟、「汽車通学生心得」配布。
  • 昭和18(1943).1 中等学校令改正公布(中学校・高等女学校・実業校の修業年限一年短縮四年制とし教科書を国定化)
  • 昭和18.10 在学徴集延期臨時特例公布、学生・生徒の徴兵猶予を廃止。
  • 昭和18.11.29 5年生金沢三男学徒兵徴集、唯一人の卒業証書授与式挙行。
    この年から農家宿泊長期勤労奉仕に出動。
  • 昭和19(1944).1 本校スキー部四年ぶり県大会優勝。
  • 昭和19.8 学徒勤労令公布。
  • 昭和19.9 4、5年生群馬県太田町中島飛行機製作所へ出動。
  • 昭和20(1945).3 紙不足のため入学者選抜学力試験を口述方式で実施。
  • 昭和20.3 5年生(15年入学)、4年生(16年入学〉同時卒業式挙行。
  • 昭和20.8.15 日本無条件降伏、終戦。

昭和(戦後)期

  • 昭和21(1946).3 千喜良英之助山形県学務課長に転任、3月鈴木吉郎第18代校長就任。

鈴木吉郎 第18代校長

  • 昭和22(1947).3 教育基本法・学校教育法公布(6・3・3・4制を規定)
  • 昭和22.4 六・三制実施。千喜良英之助第19代校長就任。

千喜良英之助 第17・19代校長

  • 昭和23(1948).2 高等学校・専門学校進学志望者に進学適性検査を実施。
  • 昭和23.4 「山形県立米沢第一高等学校」と改称。後援会を改組して教育振興会発足、初代会長高橋與市(大正3年卒)
  • 昭和23.5 校友会「興譲会」を「自治会」と改称。
  • 昭和24(1949)  米沢興譲館同窓会復活、会長高橋與市。

  • 昭和24.2 自治会歌制定、作詞星篤志、作曲滝沢美恵子。
  • 昭和25(1950).4 県立米沢第四高等学校と統合、「山形県立米沢高等学校」と改称。校長千喜良英之助。
  • 昭和25.5 全校生吾妻登山を実施、以後恒例となる。
  • 昭和25.9 創立記念日の行事として高湯マラソンを実施、以後恒例となる。
  • 昭和26(1951).4 米沢高等学校東校舎定時制と同校西校舎夜間課程を合併。
    この年より老朽校舎改築開始。
  • 昭和27(1952).3 定時制三沢東部分校廃止。
  • 昭和27.4 東校舎に米沢東高等学校を設置、本校は「山形県立米沢西高等学校」と改称。
  • 昭和27.4 米沢市立米沢女子短期大学発足。初代学長千喜良英之助(38年県立)
  • 昭和27.7 野球部県大会優勝、以後2年連続県大会制覇。
  • 昭和28(1953).8 野球部県大会優勝、東北大会決勝戦で白石高と対戦4対0で敗れる。
  • 昭和29(1954).4 山形大学工業短期大学部発足。
  • 昭和30(1955).2 スキー部県大会優勝。
  • 昭和30.5 本校グランド、陸上競技場として公認される。
  • 昭和31(1956).4 「山形県立米沢興譲館高等学校」と改称。
  • 昭和31.9.19 創立70周年記念式典挙行。新校歌(「大巓の吾妻」作詞浜田広介・作曲細谷一郎)・新校旗制定。
  • 昭和31.10 千喜良英之助、山形県教育委員に就任。
  • 昭和31.12 佐藤源治第20代校長就任。

佐藤源治 第20代校長

  • 昭和32(1957) 千喜良奨学基金設定。
  • 昭和33(1958).11 高橋里美(東北大学長、明治37年卒)文化功労者として顕彰される。
  • 昭和34(1959) 体育館竣工。
  • 昭和36(1961).3 定時制広井郷分校廃止。
  • 昭和38(1963).3 定時制窪田分校廃止。
  • 昭和39(1964).4 庄司善助第21代校長就任。

庄司善助 第21代校長

  • 昭和39.11 我妻栄(東大名誉教授、大正3年卒)文化勲章受章。
    この年老朽校舎改築工事完了。興譲会館(同窓会館)落成。
  • 昭和41(1966).1 我妻栄、奨学金として600万円寄贈。
  • 昭和41.8 財団法人自頼奨学財団設立(基本財産500万、運用財産100万、計600万)
  • 昭和41.9.19 創立80周年記念式典挙行。全日制同窓会と定時制友干会、米沢興譲館同窓会として統合。
  • 昭和42(1967).4 中山二郎第22代校長就任。

中山二郎 第22代校長

  • 昭和42.10 羽越水害被災地小松地区に全校生稲刈り勤労奉仕に出動。
  • 昭和43(1968).4 本校、鶴岡南、山形南三高校に「理数科」(定員40名)を設置。
  • 昭和43.5 興譲会奨学財団を、その他の奨学基金、寄付金等を含め自頼奨学財団に糾合統一。
    この年より、教職員のスト参加や学園紛争の余波高校にも波及。
  • 昭和44(1969).2 図書館竣工。
  • 昭和44.10 定時制三沢分校、生徒募集停止。
  • 昭和45(1970).4 大井魁第23代校長就任。

大井魁 第23代校長

  • 昭和45.7 米沢興譲館市民大学講座開設(46年7月にも継続開設)
  • 昭和46(1971).4 将来の指導的任務、規律・責任・実践力、自覚と自負養成を目的とする本校の新「教育基本目標」を作成。
  • 昭和47(1972).3 定時制三沢分校廃止。
  • 昭和48(1973).3 浜田広介作詞「大巓の吾妻」歌碑除幕式。
  • 昭和48.4 矢尾板彰(昭和8年卒〉教育振興会長就任。

  • 昭和48.8 前教育振興会長高橋與市、文部大臣表彰。
  • 昭和48.9 五十嵐力作詞「盆地米沢」歌碑除幕式。
  • 昭和48.9.19 我妻栄胸像除幕式。
  • 昭和48.10.21 我妻栄没。
  • 昭和48.11.17 浜田広介没。
  • 昭和49(1974).9 仁科五郎(昭和6年卒)同窓会長就任。

  • 昭和50(1975).7 本校教育についての新構想・移転拡充推進協会設立。
  • 昭和50.9 同窓会総会・懇親会実施要領を改革(現行方式の嚆矢)
  • 昭和51(1976).9.19 藩校創立200年・母校創立90周年記念式典挙行。記念誌『興譲館のあゆみ』『興譲館史話』『学校新聞縮刷版』『同窓会員名簿』発刊。
  • 昭和52(1977).4 加藤邦紘(昭和17年卒)教育振興会長就任。

  • 昭和55(1980).4 山上一郎第24代校長就任。

山上一郎 第24・26代校長

  • 昭和55.9 酒井巌(昭和11年卒)同窓会長就任。

  • 昭和56(1981).3 山形県立米沢興譲館高等学校定時制課程閉校式挙行。記念碑「友干」建立。
  • 昭和56.4 石井栄助第25代校長就任。

石井栄助 第25代校長

  • .9 遠藤行男(昭和14年卒)体育後援会長就任。

  • 昭和58(1983).4 山上一郎第26代校長就任。

山上一郎 第24・26代校長

  • 昭和60(1985).4 渡部芳弘第27代校長就任。

渡部芳弘 第27代校長

  • 昭和60.9 今井昭二(昭和20年前卒)体育後援会長就任。

  • 昭和61(1986).3 新校地造成(米沢市大字笹野1101)。体育館、柔剣道場竣工。
  • 昭和61.9.19 藩校興譲館創立210年・母校創立100周年記念式典挙行。
    沿革史『興譲館世紀』『同窓会会員名簿』『興譲館夜話』刊行。
  • 昭和62(1987).7 笹野地区に母校新校舎全面竣工。
  • 昭和62.9 松野良寅(昭和19年卒)同窓会長就任。

  • 昭和62.10.20 西大通(関東町)旧校舎より移転。
  • 昭和62.12 旧校舎全面解体。
  • 昭和63(1988).3 新校地にセミナーハウス完成。
  • 昭和63.4 日野顕正第28代校長就任。

日野顕正 第28代校長

  • 昭和63.6.14 新校舎竣工式典挙行。
  • 昭和63.9 山下康裕氏を迎え校舎竣工記念・体育館柿落開催。
  • 昭和63.11 弓道場、テニスコート完成。

平成期

  • 平成2(1990) .4  曽根伸良第29代校長就任。

曽根伸良 第29代校長

  • 平成2.9  (『興譲館世紀』収益金を基に)文化事業基金を設立。
  • 平成3(1991) .3  図書室・図書学習室、大多目的教室、コンピュータ教室の冷房工事完了。
  • 平成3.4  (体育後援会を解消)体育文化後援会発足、会長今井昭二。

  • 平成4(1992) .4  草壁喜一郎第30代校長就任。

草壁喜一郎 第30代校長

  • 平成5(1993) .4  篠原守信教育振興会長就任、前会長加藤邦紘同名誉会長就任。

  • 平成5.8  加藤邦紘名誉会長、全国高等学校PTA連合会の表彰を受ける。
  • 平成6(1994) .4  大谷昭男第31代校長就任。

大谷昭男 第31代校長

  • 平成7(1995) .9  川野希(昭和27年卒)同窓会長就任。

  • 平成8(1996).1 母校北通り「学園ロード」完成。
  • 平成8.4  長谷部國於第32代校長就任。

長谷部國於 第32代校長

  • 平成8.9  母校創立110周年記念式挙行。新方式の『同窓会会員名簿』刊行。
  • 平成9(1997) .3  『藩学創設300年記念事業」実行委員会発足。
  • 平成9.9  「思索の森」造成。
  • 平成10(1998).4  巻久第33代校長就任。

巻久 第33代校長

  • 平成10.8  部室棟1棟目(66.25㎡〉完成。
  • 平成10.9  藩学創設300年記念式典を挙行。3日間に亘り記念行事を行う。記念事業として『興譲館人國記』を刊行。
  • 平成11(1999).8  部室棟2棟目(79.5㎡)完成。
  • 平成12(2000).3  「思索の森」に東屋完成、植栽45本で「思索の森」整備完了(昭和12年卒青木朗氏寄贈)
  • 平成12.5  土澤幸雄(昭和28年卒)体育文化後援会長就任。

  • 平成12.7 宮崎県立高鍋高校との訪問交流開始。
  • 平成12.9  藩学創設300年記念講堂竣工。
  • 平成14(2002).4  文部科学省より『スーパーサイエンスハイスクール研究指定校』(3力年)となる。
  • 平成15(2003).4  五十嵐京子(昭和39年卒)第34代校長就任。

五十嵐京子 第34代校長

  • 平成15.5  川野希同窓会長急逝。
  • 平成15.9  高野譲(昭和29年卒)同窓会長就任。

  • 平成18(2006).4  蒲生直樹第35代校長就任。
  • 平成18.9.19  創立120周年記念式典。
  • 平成19(2007).3 国立大学法人山形大学との高大融合に関する協定を締結。
  • 平成20(2008).4 全学年5学級200名定員になる
  • 平成22(2010).4  佐藤広明第36代校長就任。
  • 平成23(2011).3 11日午後2時40分頃東日本大震災発生(米沢市震度5強)列車不通などあり3月23日まで生徒登校停止。
  • 平成23.9  大友恒則同窓会長就任。
  • 平成23.9 財団法人自頼奨学財団を公益財団法人として登記。
  • 平成24(2012).4  文部科学省スーパーサイエンスハイスクール(SSH)指定校となる。(2016年まで)
  • 平成25(2013).4  大貫英一第37代校長就任。
  • 平成27(2015).3 台湾の国立師範大学附属高級中学と姉妹校締結。
  • 平成27.4  岸順一第38代校長就任。
  • 平成28.9.19 創立130周年記念式典開催。
  • 平成29.4 第39代校長横戸隆就任。
  •  小嶋彌左衛門同窓会長就任
  • 平成31.4  第40代校長柿崎悦子就任。

令和期

  • 令和2  コロナ禍で各種同窓会イベントが中止に。
  • 令和3.4 第41代校長曽根伸之就任。