興譲館精神とは何であろうか。
それは、失われた過去の単なる遺物であろうか。
それは、われわれ現代人の精神生活になんの関係もなく、これを忘れ去り、これをかえりみなくとも、われらはなにも失うところがないのであろうか。
第一章へき頭において、生命は不断の成長であるといった。
生命の世界には、突如として生まれるものもないし、滅び去ってあとをとどめぬものもない。
われらは興譲館以来、今日にいたるまでの百八十年のあゆみを辿ったのであるが、それはただ、その時々の事件の、偶然の集積にすぎなかったのであろうか。
しからず。われらはそこに、不滅の一貫した精神の流れを観得するのである。
興譲館の精神とは果たしてなんであろうか。
藩祖謙信公は、不識庵と号された。
不識という。なにを知らぬのであろう。故事は伝える。
達磨大師、梁の武帝に見えた。
武帝問うて曰く、「われ篤く仏法を信じて、衆生のために善根をつむことすでに久しい。これに対して何の功徳があるのであろうか。」
達磨答えて曰く、「功徳なし。」
武帝曰く、「達磨は高徳の人と聞く。しかも功徳なしという。しからば、我に対する汝は誰ぞ。」
達磨答えて曰く、「我れこれを識らず。」と。
謙信公が不識庵と称せられたのはこの故事に由来するものと聞く。
およそ善根をつむのは己のためにする計いであってはならない。
母はわが子のために悲しむ。母あり、子あり、母は子の心を心とし、子は母の心を心する。
人生はかくしてはじまる。十人の心を心とするものは、十人とともに生き、百人の心を心とするものは、百人とともに生き、一切の衆生の心を心とするものは、ついに天下に道を説くであろう。
謙信公が不識と号されたのは、わが身に功徳を求めぬ仏法の精神を、わが身に体しようとする公の求道の精神の顕であろうと思われる。
公は戦国時代の武門に生れ、武将となることは止むを得ぬ運命であったけれども、心は常に国家蒼生の安寧利福にあったと思われる。
公が僧服をまとわれたのも、禅門に入って修行されたのも、この精神あってのことであるとしか思われない。
実に公は、戦国怱々の間に在って、多くの戦陣に明け暮れられたが、「百万の精兵憂えて眠らず」と賦された公の心境を憶うとき、うたた感慨無量なるものがある。
日本国民が謙信公を単に戦略に長けた武将としてだけでなく、血あり涙ある真乎の人間として、親しみと共感をもつのも故なきにあらずといえよう。
公はまことに悩みためらう求道の士であった。
上杉家中興の祖鷹山公は、藩の大事に遭遇するごとに、ひそかに謙信公の霊前に額ずき、思いをこめて大事を決せられた。
公お世つぎの際のかの誓詞の如きはもっともよいその一例である。
公は「うけつぎて国のつかさの身となれば」といわれた。
公は自ら求めて藩主の地位につかれたのではない。
封建社会においては何人も避けられぬ制度の上の束縛であり、いわば一種の運命であったのである。
あの五十騎組と馬廻組の対立争闘の際に諭されたことばのうちに「自分が部屋住みの一松三郎の立場であれば何もいうことはないけれども、かりそめにも藩主の地位について藩民の福祉を図らなければならない身となって見れば、歴代忠誠に励んできたお前たちの争を見るに忍びぬ。どちらの言い分にも皆相当の理由はあるけれども、どうか藩全体の安寧のことを思うて、自分の裁きに従って和解してくれ。」と、言々無私の誠意をもって諭されたおことばを、われらは深い感銘をもって思いおこすものである。
功名利達を求められたのでもないし、富貴権勢を求められたのでもない。
止むを得ずしてつかれた藩主の地位に在って、蒼生を安んじなければならぬ大責任の前に誠意邁進されたのである。
生活不如意のために、生まれた赤児を育てることができず、闇から闇に葬られ去る小さな生命を憐れみ、この世に生を亨けて来たものを、ことごとく、みな生を完うさせようとして払われたご苦心のほどを偲ぶとき、生命を尊ぶという不滅の真理が、如何に公の根本のご精神であったかを知ることができるであろう。
実に公は、生命をして生命たらしめるために、終生の努力を傾けられたのである。
われらが、興譲館精神の第一義をここに見ようとするのは誤りであろうか。
個人の自由という。
しかし、自由とはなんであろうか。
子供が愚であるといって、その子を捨てる自由が親にあってよいものだろうか。
親が病気をして役に立たぬからといって、これを捨ててかえりみぬ自由がその子にあってよいものであろうか。
親子となり、夫婦となるも宿縁である。
その宿縁が、己の利益と一致せぬといって、これを捨てることが自由というものならば、まこと自由はいとわしいものである。
病気の妻を捨て、利益のあがらぬ会社を捨て、月給の安い地位を捨て、ただひたすらに利益を追うて転々とする人生が、はたして、人生の名に値する人生であろうか。
鷹山公が、破滅に瀕した米沢藩をうけつがれ、うけつぎて民のつかさの身となられ、終生を藩政の挽回に尽された公のご精神は、われらこそ今日まさにこれをうけついで、親としては親の務をつくして不肖の子にもこれが養育に精根の限りをつくし、それぞれの地位、それぞれの立場に在って、己を無にして職務に忠誠であることは、千古にかわらぬ不滅の道であるべきであろう。
われらが興譲館精神の第二の根本義をここに見ようとするのは誤であろうか。
なにかを捨て、なにかをえらぶのは、えらぶことも捨てることもできぬものを生かさんがためである。
忠誠の原理こそは人生の根本義であり、興譲の精神はこの根本義に立脚するものである。
興譲の精神を身に体した米沢の人士は、学校に在っては学校をわれと感じてこれに忠誠を尽し、会社に在ってはその興隆を己の責務として忠誠を尽して終始かわらぬ努力を捧げる。
わが校に学び、天下に名を成した畏敬するわれらの先輩は、決して利を逐うに敏なる徒でもなし、一かく千金を夢みて機に投じた功利の徒でもなく、まこと黙々として、着実に己の責務に忠実であった人々であることを思う。
平洲先生は学問と今日と二途ならずと教えられ、鷹山公もまたしばしばこのことばをひいて世子に諭された。
興譲館の精神は理論のために理論をもてあそぶことではない。
なにごとにも理がないということはなく、なにごとも理によって立つけれども、理はことの始でも、終でもない。
純理を純理なるが故に尊ぶことも、十分に道理の存することであるけれども、平洲先生の学は先ず理を追うことからはじまるのではなくて、第一に、育つ生命の存在を見、その存在を第一義として、それが正しく育つ理を求め、しかして理を理に終らしめず、これをいかにして実にするか、その道を探究し実行することであった。
われらはここに興譲館精神の第三の根本義を見るのである。
純理のために純理を愛し、これを最高の目標とする態度もまた現実に存し、存してもよい態度であると思われる。
しかし、飢える子を前にして、理を追うに時を過ごすことを忍びない心が、なにかつまらぬ心というのであろうか。
人あっての理である。生命をいとおしむものは、理に耽り理を楽しむ前に、先ず飢えたる人々に食を与えようとするであろう。
藁科松伯が藩民の窮乏を見るに忍びず、先ずこれに生活の糧を与えんとして、いかにすればよいかを思念した。
ここに明君鷹山公を得て、公をしてこの大任を果さしめんとし、公の学問の道を万民救済を説く平洲先生の実学に求めたのである。
したがって興譲の学風はいたずらに理の精致を追うことをせず、常に目標を万民の利福におき、学ぶもこのためにし、論ずるもこのためにし、詩を賦するもこのためにした。
興譲の学風が産業経済、利用厚生に結びついて離れなかったのも、まことこのためである。
学問は常にこうでなければならぬとはいはぬけれども、当時の米沢としてはまことに避けられぬ道であり、またいつの世にもかゝる学問が存在してよいのである。
本校に学ぶものが、かような態度の学問だけをしなければならぬことはなかろうけれども、今日、日本の国歩多難を思えば、かゝる学風こそは、もっとも尊重されなければならぬ重要な立場であろう。
生命を生命として育てることを第一義とする興譲館の精神に、常につき添って離れぬものは、生命に不断の糧を得しめる実学の立場であろう。
平洲先生の実学をもって藩学を建てられた鷹山公のご精神は興譲の流を汲むわれらの学の本流として、常に忘れてならないことであろう。
興譲という。
何故にシナの古典にあったこの字句が藩学の名となったのであろうか。
興譲とは譲を興すという。譲とは何であろうか。
譲とは「ゆずる」と訓ずる。なにをだれに譲るのであろうか。
甲が甲の自我を主張し、乙は乙の自我を主張し、相対峙して譲るところがなければ、闘争は必至であろう。
闘争のはては征服か、然らずんば分裂が必至であろう。
闘争と分裂とはついに人生の帰結であろうか。
断じてしからず。それは人生の破滅である。
譲るとは単なる妥協ではない。損して得とる功利の道でもない。
生命の本源に帰って、生命の一なるを感得するの謂である。
人は己を捨てることはできぬけれども、母は己の食をさいてもわが子に与える。
母に己を捨てるな、無用な犠牲を払うなと教えるべきであろうか。
自といい他という。自と他とは分立する二つの存在でだけあるだろうか。
自と他とが分立するところには道はない。
自他ともに生きようとし、ともにしか生きられぬところに道が生ずる。
道とはそういうものである。
一切のものが、ともに生きるかどうかは論ずる余地があろう。
少なくとも共存の道が人生存続の不可避の道であることを否定する人はあるまい。
すでにして共存という。
共存は無制限な自己をただひたすらに主張する人々の間には成り立たぬ。
譲ることを知らぬ夫と妻は相争うて別れるのほかに術がなく、ただひたすらに、己の利を追うて他の利をかえりみぬ人々の間には、己の利をすら追う術がなくなるであろう。
小人は利にさとる。
何が利であるかは知らぬが、おのおの利と思う道を追求してみるがよい。
利は利と相剋矛盾し、ついに利は利でなくなるであろう。
己の利を追うの徒輩ですら、ついに己の利を得んとすれば、他人の利をも考えざるを得なくなるであろう。
小人と雖も、ついには利にさとらざるを得ない。
かくして利得の道も、ついに正直の哲学を生む。
「正直は最良の政策。」というのはイギリスの俚諺である。
人は誰でもある意味において利己主義者である。
主義というのはいいすぎであろう。
主義であろうとなかろうと、人は己を捨てることはできぬ。
ひたすらに己の利を求める人々と雖も、ついに己の利益を完うせんとすれば、譲の境地に達せざるを得ない。
興譲の譲は、しかしながら利己の究極の悟ではない。
しかし西から行こうと東から行こうと、共存が人生の避けられぬ姿であるかぎり、登りつめる道は一つであろう。
小人は利にさとる。
人誰か小人ならざるものがあろうか。
しかし、興譲の譲は、かゝる打算のはてに得られたる結論ではない。
子に食を譲る母親の愛の道である。
一本道に行き逢うて、どっちかが譲らなければ通れぬという打算からきたのではない。
己の生命をいとおしむが故に、人の生命をもまたいとおしみ、己為さんと欲すれば、人もまた為さんことを欲するであろうと思う心の発露である。
共存の道は、譲ることがなければ成り立たず、共存が人生存立の避けられぬ条件であるならば譲るの道はまさに人生存立の根本義である。
まことや、興すべき哉譲や。藩学の名を興譲というまた故ある哉。
理屈らしいものを述べた。
興譲の名は、かような理屈を通して得られたものであるとは思わぬ。
雪の深い一本道で誰かが出逢ったその時に、自ら避けて人を通そうと思う心は素直な人間の自然にとる道であろう。
利害の打算から生まれたのではなくて、これこそはまさに他人の生命を己の生命と同一に感ずる真乎の精神のあらわれである。
すべてが理論のはてに生まれるのではない。
すなおな精神は、すなおに真理を直覚する。
興譲の道こそは真乎として真の人間であった鷹山公が、これまた真の人間であった平洲先生の教にふれて、大悟せられた人生の存立の根本義である。
生命をして生命たらしめる興譲館精神の第一義は、興譲の道を得てここに実にされるのである。
五人の日本人 無教会派のキリスト者としてわが国キリスト教界に有名な存在であった内村鑑三氏は、「代表的日本人」という書物を書いた。
内村氏はこの書の中に日本が生み日本が育てた人々のうちで、世界に誇るに足る代表的日本人として五人の人をあげたのである。
その中に上杉鷹山公を第一にあげた。
不覊のキリスト教信者であり、すべてを世界的視野の上に立って考え、己の信念を枉げて他と妥協することを決してしなかった内村鑑三氏は、あらゆる思慕と尊敬の念をもってわが鷹山公を代表的日本人の一人にあげたのである。
鷹山公が決して米沢の、米沢だけの鷹山公ではなく、世界的存在としての鷹山公であることを、米沢とは格別な関係をもたぬ内村鑑三氏が指摘したことは、興譲の流をくむわれわれとして深く考えるべきことであろう。
いつの時代、なにの世であろうとも、真実の人間は常に真実の人間である。世は推移する。
封建時代とか資本主義時代とかまたは共産主義の社会とかいう。
しかしながら人間が時代とともになにからなにまで変わるのでは決してない。
万葉の歌人の歌が惻々としてわれらの胸をうつのも、人間としてのかわらぬ生命が流れているからである。
鷹山公が生涯をかけてなされた事業の背後にある公の真実の精神は、千古を経ても決して古くなることのない不滅の精神である。
不幸にして太平洋戦争がおきた。
惜しむべき有為の青年が、母の名を呼びつゝ戦場に散った。
かれら有為の青年はなにを求め、なにを悲しみ、なにを怒ったのであろうか。
これら純真な青年たちの死を無にしてよいものであろうか。これはいたましい現実である。
われらはこのいたましい現実の中に興譲館の精神を見る。
生命を愛してやまなかった鷹山公の精神を見る。
わが子すら満足に育て得なかったほどに困窮した藩民の声から、いたましくもわたつみの声を聞かれたのである。
真実に終始された鷹山公のご精神は、人の世を人がつくるかぎりつゞく精神であるとともに、わが米沢をこえて世界に通ずる精神であろう。
われらは興譲の精神をだれかに向かって誇ろうとは思わぬ。
またこの精神をだれかに強いようとも思わぬ。
たゞわれらはこの精神が人々のもつさまざまな立場や主義や人生観をこえて、永遠なるものとしてこれを信じこれをまもろうと思うものである。
「開校七十年誌」
【ここに掲げる「興譲館精神」は、第十七代並びに第十九代の校長千喜良英之助が、本校七十周年を迎えるにあたり、当時の教頭奥山政雄と相諮り、興譲館精神の何たるかを、戦後の学生に説くべく、鋭意想を練り、千古不抜の精神の何ものかを孜々探究し、人の世を人が作りゆく限り続くその源流がある、とつきつめたとき、奥山教頭が千喜良校長の信条を体して執筆したものである。
「藩校興譲館創立二百年 山形県立米沢興譲館高等学校創立九十年 興譲館のあゆみ」 】
と記載されている。本文に署名はないが奥山教頭が書いたと推察される。後日、本文を書いたのかを問われた時、本人は肯定も否定もしていないという。
1954年9月19日 | 創立記念日の同窓会総会で校名変更の議が上程され満場一致で県当局への陳情の議が決定 |
1956年4月 | 山形県立米沢興譲館高等学校と改称 |
1956年9月19日 | 創立七十周年記念式典挙行 新校歌(作詞浜田広介 作曲細谷一郎)、校旗制定 |
1956年9月30日 | 校長千喜良英之助退職 |