8歳の少女は中国から山形県にやってきた。日本語はまだ話せない。友達もできない。学校の先生が言っていることもよく分からない。家に帰っても話を聞いてくれる人がいない。私の居場所はどこ――。
友達づくりに苦労
少女の名前は伊藤恵子さん(通称名・H31卒)。両親は中国人で黒竜江省で生まれ、育った。「日本の教育を受けさせたい」という母の思いから、親戚を頼って2009年春に南陽市にきた。
小学3年生だった。山形で最初に食べた玉こんにゃくは口に合わなかったが、小学校の校舎はきれいでトイレも水洗。「最初の1カ月はワクワクした」。学校では地元の台湾人女性が通訳をしてくれ、日本人の同級生と遊ぶことができた。
でも通訳がいなくなると学校生活は難しい。連絡帳も日本語で書けないし、掃除当番の役割分担表も分からない。友達づくりも簡単ではなかった。
時がたつにつれ、中国に対して周りの日本人が好感を持っていないと感じた。中国の反日デモが報道されると同級生から「反日デモに行った?」「恵子ちゃんって中国産なの?」。他にも先生の言葉に傷付けられたこともあったという。
家族に相談できず
でも仕事が忙しい家族には相談できなかった。「誰も私のことを気にしてくれない」。自分の世界に入り込める居場所は、学校や地域の図書館だった。
読書が日本語の勉強に役に立ったと思う。児童書「かいけつゾロリ」は図書館にある全館を読破。他の物語も読むと感情移入できた。
いつしか日本語も不自由なく使えるように。中学では成績も学年トップになった。吹奏楽部でトロンボーンを演奏するなど、いろいろな活動に一生懸命取り組んだ。「周りの日本人に溶け込まないと」と思う反面、「私のイメージで中国が決まってしまう」という思いがあった。
大学への進学 転機
米沢興譲館高校(米沢市)に進学すると、自分の背景を知る人もほとんどいなくなった。東アジアの架け橋になりたいと東京外国語大学に進み、朝鮮語を専攻した。多様な背景を持つ人が集まるキャンパスで自分を受け入れてくれるコミュニティーに出会えたような気がした。
上京し、中国人の児童生徒を手伝う通訳支援員のアルバイトを始めた。昔、自分を助けてくれた台湾人女性を思い出した。貧困家庭の子どもの居場所づくりを支援するボランティア活動にも参加した。
「小さい時、自分のところに同じような居場所があれば救われたな」と思う一方で、外国の子どもがいないことに違和感を覚えた。
21歳「支える」側に
「私のように手を差し伸べてほしい子どもたちがいるはずだ」。外国につながりのある子どもたちに居場所をつくろう--。
今夏、自身の体験をもとに任意団体「Belong」を大学生のメンバー5人で立ち上げた。
小中学生が遊びに来るフリースペースで外国につながりのある子どもを受け入れられるように語学ができる大学生を派遣したり、都内の高校生が外国語で定期的に悩みや相談事を話したりできる場所づくりを計画している。地域住民が自宅で放課後、外国人の子供の面倒を見る居場所「第二の家」プロジェクトの実現も目指している。
Belongは来年本格的に動き出しそうだ。「子どもの頃、助けてほしいと思った自分の経験がある。子どもたちの自己肯定感を高めて、私たちが味方で、愛されているということを教えてあげたい」
最近、自分の過去を素直に受け入れられるようになってきた。「つらかった経験が今の自分を形づくっている。だからここまで成長できた。私は強いんだ」。これからはありのままの自分でいようと思う。
少女は21歳になった。今春から中国語の本名「寇語倩(コウユウチェン)」を名乗ることにした。
2021年12月16日朝日新聞より