ダイアモンドオンライン会員限定記事:日本を動かす名門高校人脈・第124回【米沢興譲館高校】で著名な卒業生を紹介しています。会員登録(無料)することで記事全文を閲覧可能になります。
日本で最古の公立高校 OBには俳優の真島秀和も
山形県南部の米沢平野にある県立高校だ。江戸時代から幕末にかけて上杉家米沢藩が領した城下町で、米沢興譲館高校はその藩校をルーツとしている。約330年の校歴を誇り、日本の公立高校で最古ともいえる。
活躍ぶりが目立つ卒業生と言えば、俳優の真島秀和だろう。1976年11月生まれの中年俳優で、その渋い「イケオジ」ぶりで近年、ドラマや映画で大人気だ。
真島は米沢興譲館高校から国士舘大に進んだが中退し、1999年に映画デビューした。テレビドラマには2001年ころから出演したが、脇役が多かった。動画配信サービスの調査では20年、「色気がすごい俳優アンケート」で他のイケメン俳優を抑え、第1位を獲得した。
23年1月から3月にかけては、主演ドラマ『しょうもない僕らの恋愛論』(日本テレビ系)に、23年8月からは『ハレーションラブ』(テレビ朝日系)といった連ドラに立て続けに出演した。また年に一度は、舞台にも出ている。
メディア関連では、明治から昭和にかけ、米国でジャーナリストとして活動した河上清がいた。1887年に米沢興譲館高校の前身である旧制米沢中学に入学、慶応義塾、青山学院などで学び、万朝報記者となり、その後米国に渡り、キリスト教社会主義活動家となった。
編集者では、文芸春秋で雑誌「CREA」編集長などを務めた石橋俊澄が卒業生だ。
脚本家の高橋正圀(まさくに)もいる。映画監督の山田洋次(旧制山口県立宇部中学・現宇部高校卒)に師事し、NHKの連続テレビ小説や『釣りバカ日誌』などの脚本を担当した。
田中哲は山形新聞社―山形放送―FM山形など山形のメディア界で戦後50年にわたって活躍、「山形国際ドキュメンタリー映画祭」の生みの親だ。
昭和時代の映画監督・遠藤三郎は、東京工芸大教授を務め、日活ロマンポルノ作品をたくさん手がけた。
写真家では、『人間遺産』などが代表作の須藤尚俊がいる。
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2024年1.月16日 ダイアモンドオンライン会員限定記事より冒頭部分
Details
文芸や音楽分野などで活躍する卒業生たち
文芸では、大正から昭和にかけて多くの童話を著した浜田広介がOBだ。「ひろすけ童話」と呼ばれ、小学生向けの平易な語り口で、純朴で心を打つ内容だ。
活躍中の漫画家がいる。『酒のほそ道』などで知られ、手塚治虫文化賞短編賞を受賞しているラズウェル細木がOBだ。
『銀河鉄道の夜』をはじめ、宮沢賢治作品の漫画化で業績を積んだますむらひろし(男性)もいる。2001年に宮沢賢治学会イーハトーブ賞を受賞した。
青木薫は女性翻訳家だ。京都大の大学院博士課程修了の理論物理学者である一方、欧米科学者の著作を数多く翻訳出版している。2007年度には日本数学会出版賞を受賞した。
岡部史(ふみ)も女性翻訳家、児童文学作家だ。米沢興譲館高校に入学したものの、すぐに都立雪谷高校に編入学し卒業した。米ノースカロライナ大で、児童文学を学んだ。
歯科医師の黒江太郎はアララギ派歌人で、斎藤茂吉文化賞を受賞した。
美術では、水彩画家で民家をモチーフにした作品が多い黒沢梧郎がいた。
今泉篤男は美術評論家で、京都国立近代美術館館長を務めた。
音楽では、ソプラノ歌手の松倉とし子がいる。「金子みすゞ詩による童謡歌曲集」(中田喜直作曲)の歌声が評判になり、NHKなどに出演した。
元東京フィルハーモニー交響楽団首席ティンパニー奏者の加藤博文も、OBだ。
渡部謙一は、東京芸術大・器楽科卒の指揮者だ。羽毛田耕士(はけた・やすし)はジャズトランペット奏者だ。
米国独立宣言の年に上杉鷹山が「興譲館」と命名
1878年に、英国の女性旅行家イザベラ・バードは東京から北海道(蝦夷地)を旅行し、1880年にその旅行記『Unbeaten Tracks in Japan』を発刊した。この旅行記の日本語訳が『日本奥地紀行』というタイトルで、1973年に発刊された。
翻訳出版したのは、慶応大名誉教授の英語学者・高梨健吉(2010年死去)だった。高梨は旧制県立米沢興譲館中学を1937年に卒業、東京文理科大(現筑波大)―米コロンビア大で英文学を学んだ。英語学習参考書や多くの著訳書を出した。
『日本奥地紀行』には、明治時代初期の日本の地方の住居、服装、風俗、自然などが克明に書き留めてある。山形については南から北へと旅し、米沢平野を「アジアのアルカディア(牧歌的理想郷)」とほめたたえた。
その米沢は江戸時代、上杉氏が15万石で領していた。米沢興譲館高校は、第4代藩主・上杉綱憲が1697年に設けた藩校・学問所を、創立のルーツとしている。
その後、名君として知られる9代藩主・上杉鷹山(ようざん)が藩校を「興譲館」と命名した。中国の古典『大学』の一節「一家譲なれば 一国譲に興る」から引用したのが「興譲」だ。1776年、米国の独立宣言の年だ。
鷹山は日向高鍋藩(宮崎県)の藩主・秋月種美の次男として生まれた。10歳で米沢藩8代藩主の婿養子となった。
こうした縁をバックに、鷹山公生誕250年を契機に2000年7月、生徒5人・教員3人が宮崎県立高鍋高校を親善訪問した。以降、隔年で相互訪問交流が続いている。
現存する新制高校のルーツを江戸時代の藩校創立までさかのぼる例は、全国で20~30校ある。典型的な例としては、福岡県立修猷館高校(福岡市早良区)がよく知られている。江戸時代、福岡市周辺を領していたのは黒田藩だったが、その藩校は「東学問所修猷館」という名だった。1784年の開校で、修猷館高校のルーツはそこにある、としている。
米沢興譲館高校では、もう一つの創立年として1886年を挙げる場合もある。この年、明治政府は中学校令を出し、それに沿って私立の正則中学が創立された。藩校・興譲館の流れをくむ学校だった。
やがて県に移管され米沢尋常中学―米沢興譲館中学となり、1948年に学制改革で新制高校に衣替えされた。米沢第一高校を名乗るなど曲折を経たうえで、1956年に現校名の県立米沢興譲館高校になった。
「興譲の精神」と呼ぶものがある。(1)自他の生命を尊重する精神、(2)己を磨き、誠を尽くす精神、(3)世のために尽くす精神――の三つだ。
校長の曽根伸之はOBで、後輩の生徒たちに「果敢に挑戦し新しい価値の創造に向け貢献していく、次代のリーダーとなる人材を育成する」と語っている。
文科省から2002年以降、SSH(スーパーサイエンスハイスクール)に指定されている。15年には台湾の国立台湾師範大学附属高級中学と姉妹校締結をした。16年には、「科学の甲子園全国大会」の生物の実技部門で、1位となるなどの成果が出ている。
2018年度から国際探究科と理数探究科が各1クラス、設置された。普通科3クラスと合わせ、計5クラスだ。
生徒数は男女半々だ。部活動は活発で、全員加入制だ。フェンシング、陸上、水泳,ホッケーなどが、全国大会に出場している。山形大などに出向いて高大連携の研究を行うCSSクラブも活躍している。
大学入試では近年、地元志向、現役志向がひときわ強くなっている。
23年春の大学入試(23年4月入学)では、現役だけで国公立大に136人が合格した。卒業生数は、194人だったので、その比率は70%とかなり高い。
大学別(浪人生も含む)では東北大に11人、東京大、京都大、東京工業大には各1人だった。地元の山形大には32人、さらに新潟大22人、福島大11人などだ。
私立大には、東北学院大24人、東洋大、日本大各11人、白鷗大10人などだ。
学者・研究者を数多く輩出
学者や研究者として活躍した卒業生が、数多くいる。
民法の権威である我妻栄が、大正時代の卒業だ。旧制一高―東京帝大法学部卒で、入学・卒業とも1番で、30歳で東大教授になった。1964年には文化勲章を受章している。伝統的な民法学は「我妻民法」と呼ばれる解釈論に基づいているが、2017年に初の抜本的改正法が成立した。
哲学者で日本に現象学を紹介した高橋里美もいた。戦後に東北大総長も務め、1958年には文化功労者に選ばれた。
京都帝国大教授で日本の植物分類学の基礎を築いた小泉源一は、1901年に米沢中学を卒業している。東京帝大の客員研究生で植物分類学の先学だった牧野富太郎に1905年、「弟子にしてほしい」と懇願したエピソードを持つ。小泉は東大を卒業し、京都大に助教授として招聘(しょうへい)された。牧野は、2023年放送のNHK朝ドラ『らんまん』のモデルになった人物だ。
文系では経済学者、評論家の大熊信行、日本経済論の大塚勝夫、マクロ経済学の星岳雄らがいる。星は米スタンフォード大教授などを経て2019年から東大教授だ。
小関悠一郎は日本近世史が専門の千葉大准教授で、上杉鷹山についても突っ込んだ研究をしている。
英学者の松野良寅も卒業生だ。我妻栄記念館館長をした。
大滝則忠は、国立国会図書館館長のあと東京農業大教授を務めた。
須藤良は駿台予備学校世界史科の名物人気講師だ。全身を使った身ぶり、手ぶりの寸劇をすることもある。奇抜なファッションでも有名だ。米沢興譲館高校1976年卒だ。
桐生正幸は犯罪心理学が専門の東洋大教授で、刑事事件などでテレビ局からコメントを求められることも多い。
秋山武三郎は電気通信技術の専門家で、明治時代に逓信省電話局に勤めた。天下りし、日本電気会長などを歴任した。
寺沢寛一は理論物理学者で、千葉工業大学長、電気通信大学長などを歴任した。
旧制興譲館中学から大成中学(現大成高校)に転校し、旧制一高(東京)を経て東大卒だ。
宇宙線研究の西村純、海洋政策学の川辺みどりらも、OB・OGだ。
政治家や経営者として活躍する卒業生たち
医師では、聖隷浜松病院の元院長・堺常雄(脳神経外科医)がOBだ。日本病院会会長も務め、救急医療の充実に努めた。
紺野大地は東大医学部附属病院老年病科の医師で、脳・老化・人工知能の研究をしている。脳・AI融合の研究最前線を走っている気鋭だ。
神崎展(まこと)は東北大大学院医工学研究科教授で、ナノシステム医工学の研究をしている。
政治家では、自民党衆院議員を9期務め、労働相などを歴任した近藤鉄雄がいた。
たった8日間だけ農水相を務めた衆院議員の遠藤武彦、衆院議員を2期した金子善次郎もOBだ。
安部三十郎は、2003年から12年間、米沢市長を務めた。米沢藩政の基礎を築いた上杉氏の家老・直江兼続を照準に、「NHK大河ドラマに推進する会」の会長を務め、NHKに陳情した。これが功を奏したのか、直江を主人公にする大河ドラマ『天地人』が2009年に放送された。
大企業で社長、会長などのトップを務めた卒業生は、相田岩夫と加藤八郎(日本出版販売)、北沢敬二郎(大丸)、金沢忠一(明電舎)、上村甚一(東亜紡織)、相浦浩(帝人精機)、我妻貞一(日鉄溶接工業)、木村有恒(日産化学工業)、石塚庸三(パイオニア)、後藤基(東邦金属)、高橋朗(デンソー)、神尾章(三菱樹脂)、佐藤教郎(日立電線)、星秀一(伊藤忠食品)、南浩史(大島造船所)らだ。
海軍大将の南雲忠一をはじめ多くの高級軍人が卒業生
スポーツでは、プロ野球南海ホークス(現福岡ソフトバンク)の投手で221勝を挙げた皆川睦雄がOBだ。日本で最初にカットボールを投げたといわれる。「野球殿堂入り」をしている。
富樫興一は米沢興譲館―慶応大野球部で活躍、阪神電鉄に入社し、初代甲子園球場長を務めた。1935年に大阪野球クラブ(のちの阪神タイガース)の球団代表になり、50年のセ・パ分裂時にはセ・リーグ残留を決めた。パ・リーグに属さなかったという富樫の英断が、今日の熱狂的な阪神球団人気の原動力になった。
OGでは、フェンシング選手の池田(旧姓原田)めぐみがいる。米沢興譲館高校3年の時にフェンシングジュニア世界選手権に出場、その後アテネ(エペ個人28位)、北京五輪(同15位)に出場した。東京女子体育大―筑波大大学院卒だ。
鈴木茂は、日本電信電話公社出身でNTTスポーツコミュニティ社長や、プロサッカーチームの大宮アルディージャ社長などを務めた。
明治維新前後に、旧制中学として発足する前の藩校・興譲館で学んだ人物も、同校では広く卒業生とみなしている。
建築界で初めて文化勲章を受章した伊東忠太は、旧制千葉県立鹿山中学(現佐倉高校)卒だが、5歳から6歳にかけて興譲館童生として学んでいた。
明治から大正にかけ、農商務相、内相などとして活躍した旧米沢藩士の平田東助も、興譲館で学んだ。後年、ドイツのハイデルベルク大で、日本人として初の博士号を得た。
幕末から明治にかけ志士、陽明学者、詩人として活躍した雲井龍雄も、14歳から興譲館で学んだ。山形出身の小説家・藤沢周平(山形県立鶴岡中学・現鶴岡南高校夜間部卒)が、雲井を主人公とした小説を書いている。
武人の誉れ高い米沢藩の伝統をひいてか、明治時代の卒業生には高級軍人が多い。明治から昭和に至る日本の近現代史に登場してくる人物だ。
日露戦争で日本海海戦を指揮しロシア・バルチック艦隊の日本海進入ルートについて的確な「読み」をした山下源太郎、太平洋戦争で真珠湾の奇襲攻撃をした南雲忠一の両海軍大将はじめ、海軍の中枢をたくさん輩出している。いずれも海軍兵学校に入る前に、興譲館で学んだ。(敬称略)
(フリージャーナリスト 猪熊建夫)