取り壊されることになった木造校舎に、ずっと置かれていた重厚な箱。入っていたのは、目標までの距離を測るために使われたという旧日本海軍の「測距儀」だった。米沢市立北部小学校に残されていた背景には、戦争をめぐる歴史が詰まっている。
天皇の「奉安庫」に備え付けた品か
2年前の7月。1937(昭和12)年築の校舎を解体する際、2階の資料室にあった箱から、長さ約1・5メートルの鉄の筒のようなものが出てきた。1920年にあたる「大正九年」という表記のほか、「日本光学工業株式会社製造」との文字。調べると、同社はカメラ大手ニコンの前身だとわかった。
昨秋、ニコンの歴史や製品を紹介するニコンミュージアムの担当者が来校し、実際に見て、測距儀であると確認した。「この時期の測距儀は残っていないと驚き、とても興味を示していました」。当時、北部小校長だった佐藤哲・米沢市立興譲小校長(S57卒)は、その時の様子を振り返った。
なぜ学校に残っていたのか。学校は手がかりを探した。戦艦大和(やまと)が長さ15メートルの測距儀を搭載していたと知ると、大和ミュージアム(広島県呉市)にも問い合わせた。今年2月には地元の公民館だよりに掲載してもらい、その後、地元紙などに話題として紹介され、様々な情報が寄せられた。
その中に決定的な一つがあった。
国立公文書館アジア歴史資料センターのデータベースで検索すると、当時の北部尋常小学校長が岡田啓介海軍大臣にあてた1928年12月の「廃兵器無償下付願」という文書が見つかった。防衛省防衛研究所の所蔵だった。
内容は、天皇・皇后両陛下の御真影(ごしんえい)を納める「奉安庫(ほうあんこ)」のための柵や備え付け品にしたいので、鎖、弾丸、観測鏡、測距儀をゆずってくださいというもの。これに対し、海軍省が、無償でゆずるが、運搬費は学校の負担で――と通知する文書もあった。
太平洋戦争が終わるまで、学校では御真影に拝礼し、教育勅語が奉読された。その管理・保管は、学校にとって最も重要な責務だった。
山形県立博物館の青木章二・専門学芸員(教育部門)は「奉安庫は主に卒業生や学校職員らの寄付によって建てられた。完成は地区の人たちにとって悲願で、行政も推進した」と説明する。地震や火災から守るため、鉄筋コンクリート造りなど頑丈につくられた。
だが、敗戦で状況は一変する。「県内の御真影は県庁に集められ、ボイラー室で焼却された。奉安庫もほとんどが取り壊されており、残っている資料は少ない」と青木さん。備え付け品のことは初めて聞いたという。
北部小では当面、測距儀を学校で保管する。
米沢は、真珠湾攻撃で機動部隊を率いた南雲忠一中将ら多くの海軍将校が輩出したことで知られる。佐藤校長は「奉安庫をめぐり、北部小と同じようなことが各地であったようです。海軍の測距儀が北部小にあった経緯も含め、興味は尽きません」と話している。
2021年8月12日朝日新聞より