日本ウェルネススポーツ大教授・工藤美知尋さん(75)

長井出身の政治学者で日本ウェルネススポーツ大教授の工藤美知尋さん(75)=東京が、海のない置賜地域から戦前の海軍に多くの将官を輩出した理由などに焦点を当てた「米沢海軍 その人脈と消長」(芙蓉書房出版)を出版した。日本海軍の中に占められる「米沢海軍」の盛衰について、明治維新から太平洋戦争終戦までの歴史の流れと合わせて考察している。

2022年7月24日山形新聞より
工藤美知尋さんが出版した「米沢海軍 その人脈と消長」

旧藩士と勝海舟親交、将官多数輩出-軍縮巡り分裂

江戸時代に米沢藩が治めた置賜盆地は、海軍の大将3人、中将16人、少将12人を輩出している。多くの海軍軍人を出している薩摩や佐賀に次ぐ規模で「米沢海軍」の言葉で語られる。米沢海軍に関する先行研究は、海軍の士官を養成する海軍兵学校(海兵)に米沢から進み、在校中に終戦を迎えた故松野良寅さんが行っている。

米沢海軍の誕生に貢献した人物として、工藤さんは旧米沢藩士宮島誠一郎を挙げる。宮島は勝海舟と親交を深める中で、明治維新の際に幕府側についた米沢の若者が活躍できる場として海軍を考えた。宮島の実弟の小森沢長政は創世期の海軍で活躍し、後進の海軍入りを後押ししたことで「米沢海軍の始祖」と呼ばれる。その後、旧制米沢中学(現米沢興譲館高)の成績優秀者が海兵に進むルートが確立し、米沢海軍が拡大していった。

米沢海軍のハイライトとして工藤さんが描くのは、1919(大正8)年の特別大演習観艦式。大正天皇の前で行われた演習で指揮官を務めたのは、山下源太郎連合艦隊司令長官と、黒井悌次郎第三艦隊司令長官。共に大将まで昇進した米沢出身者で、2人にとってはもちろん、米沢海軍にとっても「最高の名誉」と工藤さんは評価する。

一方、22年のワシントン、30(昭和5)年のロンドンの両海軍軍縮条約を経て、米沢海軍の栄光に陰りが見られるようになったと指摘する。都市部の旧制中学が海兵の入試対策に力を入れ始め、米沢出身者の絶対数が減少。さらに軍縮をめぐって米沢海軍の軍人も「艦隊派」と「条約派」に分裂し、まとまりとしての米沢海軍の存在感は低下した。太平洋戦争時には南雲忠一が真珠湾攻撃の司令官を務めたが、44年にサイパン島で戦死。死後、米沢海軍3人目の大将に昇進。

「米沢海軍-」は四六版288ページで2640円。置賜出身の海軍士官136人の履歴なども収録し、米沢海軍と深い関わりがある山本五十六、井上成美などの提督にも触れる。太平洋戦争時、海上を漂流していた英国兵を救助した工藤俊作中佐の事績も紹介している。

2022年7月24日山形新聞より