1956年に撮影された千喜良英之助。戦後の混乱した県教育界を立て直し、米沢女子短期大の創設など本県教育の発展に尽力した

少年時代、農村を豊かにする人材を育てようと教育者を志した。岩手・沖縄・山形に大きな足跡を残した。

1941(昭和16)年、千喜良英之助は母校・米沢興譲館中(現米沢興譲館高)の校長として故郷米沢に戻った。母校に質の高い教員を集めるため、芳泉町の生家の田畑を手放すなど私財を投じて資金を作ろうとした。それを知った先輩の我妻栄(法律家、民法体系の確立者)らは、「千喜良校長講演会」を作り、広く同窓生に呼びかけ、財政的なバックアップを行った。使途はすべて英之助の裁量に委ねられたという。今日ではまず考えられないことだが、当時の山形県の教員の給与は他県に比べて低かったらしく、生活費などを補うために使われたらしい。

太平洋戦争末期の45年3月、48歳の英之助に召集令状が届いた。陸軍少尉としての待遇であった。10月に東京・麻布の第三連隊に入隊するために上京したが、前夜の東京大空襲で兵舎が焼失してしまったため、宮城県石巻・多賀城、山口県などを転々とする。敗戦後の9月10日に召集が解除され、興譲館に復帰した。

翌年、いったん校長職を離れ、山形県視学官に任命された。ときの村山道雄県知事(官選)に依頼されてのことで、教育民生部の学務課・社会教育課の両課長を兼務し、業務に忙殺されることになった。敗戦と連合軍の占領によって混乱する県教育界の立て直し、戦前の国家主義・軍国主義的な体制から民主主義的な体制にへと大転換する必要があった。6・3・3・4制の導入をはじめ、教育制度も大きく変わった。その過渡期に激職に就いたのである。

不適格者の排除

教員、そして事務方として興譲館・県庁で英之助をサポートした完戸一郎(英之助の義弟、後山形県議)によると、この頃の課題で大きなものは以下の諸点であった。

  1. 教職員的確検査
  2. 教職員の待遇改善
  3. 人事における人材登用
  4. 市、町立の女学校を県立に移管
  5. 社会教育
  6. 教育民主化のための過渡期的措置

重要なものを説明しておこう。1はいわゆる「公職追放」の関連である。連合国軍総司令部(GHQ)が、戦時中の軍国主義を賛美する言動や推進する役職にあった教職員を不適格者として排除するよう指令を出した。そのためには個別に審査を行う必要がある。

だが、戦争賛美の空気の中で自分の意見が言えず、不本意な思いで全体に合わせていた教員も多くいたはずである。英之助自身、沖縄への転任を余儀なくされたのは当時の国家主義的教育に反する組織運営をしていたからである。教員の心中を誰よりも理解していた英之助は外部からの強いプレッシャーに耐え、ほとんど追放者を出さずに事態を乗り切った。

6の「過渡期」は、教育制度を民主主義的制度に転換するのに要する期間を指す。教育委員会(発足当時は公選制)制度に移行すべく、行政組織改編と適任者配置を英之助が担った。

これらの困難な業務をこなし、47年に再び興譲館中の校長になった。教育新制度が実施され、旧制中から新制の米沢第一高等学校、米沢高等女学校と統合して米沢高、分離して米沢西高、そして米沢興譲館高と制度や校名が目まぐるしく変わる激変期であった。

現在の米沢興譲館高。千喜良は母校の校長として優秀な教員を集め、教育に力を注いだ=米沢市笹野

興譲館の卒業生で、母校の教員や山形大教授を歴任した松野良寅氏の「興譲館世紀」(86年刊)によれば、英之助が校長としてもっとも心を砕いたのは優秀な教員を集めることだったという。研究志向の教員には物心両面の援助を惜しまなかった。在勤中に多数の著書と論文を書き、大学教授になった教員もいた。また、興譲館のグラウンドを整備し、日本陸上競技連盟公認の陸上競技場にした。戦前に岩手県の師範学校の寄宿舎でプールを自力で作ったように、校庭整備委員会を組織して教員や生徒の協力を得ながらの作業であった。

そして、校長の多忙な業務の傍ら、さらなる大仕事に取り組んだ。女子短期大学の創設である。戦前、沖縄の女学校で教頭や校長を務めた経験から、女子教育の重要性を認識していた。そこで米沢に女子短大を設置しようと考えたのであろう。興譲館の教員の協力を得つつ、鋭意開学準備を進めた。

当初は山形県を設置主体と考えていたが、不調に終わった。そこで米沢市立としての設置を考え、文部省に打診して好感触を得、米沢市と市議会に設置を強く働きかけた。将来にわたって維持できるのかといった不安は流れていたが市議会で説明した際には、財政面で「市に一銭のご迷惑もおかけしない」とまで発言した。その言葉を額面通り受け取る議員はさすがにいなかったようだが、英之助の熱意は十分伝わった。ついに市は申請に踏み切り、文部省の認可を得た。

52年、市立米沢女子短期大学(米短)が家政科80人、被服別科40人で、米沢東校に隣接して開学した英之助は西高と東高の校長を兼務したまま初代学長に就任した。

のちに学長となる長岡弥一郎は、56年に新設の国語課主任教授として着任した。その際、大変びっくりしたことがあったという。短大専有の校舎はごくわずかで、ほとんど東高の校舎を借用していた。これで文部省の短大の設置基準をクリアできたことに驚いたのだが、すぐに納得した。

大学設置審議会委員が校地予定地の視察で米沢を訪れた際、委員の一人として現地を案内し、説明したのが哲学者の高橋里美であった。高橋は米沢市出身で、興譲館の英之助の先輩。旧制山形高校長・東北大学長を歴任し、文化功労者となった。

高橋の応援があって認可が下りたのだろう。と長岡は推測している。戦前に興譲館の教育充実のために援助を行った我妻といい、英之助を応援する人々は周囲にたくさんいた。このことは興譲館人脈の豊富さをも証明している。

米短の学長は2年間務めた。56年9月末で米沢興譲館高校長も勇退。山形県教育委員を64年まで務める。65年8月に没した。68歳であった。

米短は63年に県立に移管、学科の増設・改編を繰り返し発展し、2014年には健康栄養学科を母体として4年生の米沢栄養大が併設され、今日に至っている。

岩手県師範学校の教え子の清野守氏が、英之助から聞いた学園経営の理想を次のように紹介している。

「広大な学園の中に山あり川、池あり、農場や牧舎があり、牛、豚の飼育や農場の作業を通し、生活を通しての人間形成をはかる生活即教育の学園こそ望ましい姿である」

少年時代、農村を豊かにする人材を育てようと教育者を志した。理想を胸に抱きつつ、人材育成に信念を貫き通し、岩手・沖縄・山形の教育界に大きな足跡を残した生涯であった。

米沢興譲館高創立70周年記念祝賀会の様子

てぃんさぐぬ花

以下は余談である。今回も含めこのところ、本欄で沖縄と深く関わった建築家伊東忠太や染色家田中俊雄ら米沢人を続けて紹介している。県政改革を試みた沖縄県令の上杉茂憲をはじめ、彼らが倣ったのは上杉鷹山の改革へのたゆまぬ意志であった。英之助もそうであったろう。

21年に山形放送のラジオ番組で、沖縄と山形の関わりを何度か話した。その際にリスナーから教えられたのが、沖縄を代表する民謡「てぃんさぐぬ花」(「ホウセンカの花」)だ、10番まである歌詞のうち、6番は次のような歌詞である。

なしば何事(なんぐとぅ)ん/なゆる事(くとぅ)やしが/なさぬ故(ゆい)からどぅ/ならぬ定み

これは鷹山の和歌「なせば成るなさねば成らぬ何事も成らぬは人のなさぬなりけり」を琉球方言にして歌詞に取り入れたものであろう。この歌詞がいつ誰によって取り入れられたのか、調べてみてもなかなか分からなかった。その点は残念だが、沖縄と米沢の心のつながりがこのような形で確かに息づいていることを喜びとしたい。

山形大学術研究院教授 山本陽史 

2024年1月7日山形新聞より