沖縄女子師範学校時代の千喜良英之助

送別会は、おえつと号泣であふれ、盛岡駅でも全生徒、卒業生多数が集まり、校歌を泣きながら歌って見送った。

1932(昭和7)年、岩手県知事石黒英彦は、県南西部の胆沢郡金ケ崎町六原に「岩手県立六原青年道場」を開いた。戦前の日本は農業が基幹産業であったからか、国家体制に忠実な「皇民」意識を持ち「皇国農村」作りをリードする若手営農者を育てることが主な目的であった。そして日本精神を発揚するいわゆる「六原精神」を岩手の教育の支柱とし、欧米風の進歩的・自由主義的教育を排除しようとしたのである。

とすると、千喜良英之助が岩手で実践している自由主義的な教育方針は、石黒や石黒に忠実な佐藤熊三郎県視学官にとっては相いれず、しかも人望の高い英之助は目の上のたんこぶのような存在であった。

彼らは英之助を岩手県の教育界から排除しようと考えた。そこで利用されたのが、いわゆる「教育赤化事件」であった。昭和初期の大恐慌などで日本は深刻な不況に陥った。特に地方の農村では貧窮に苦しむ家が激増した。社会主義思想の影響を受けた「プロレタリア教育運動」が全国の教員の間で広がっていった。

実は、この運動の弾圧は全国に先駆けて岩手で始まったのである。30年11月のことであった。師範学校でもおよそ百人の生徒や卒業生の現職教員が、思想を取り締まる特高課の取り調べを受け、摘発されていった。大部分は自由主義的な思想を研究しているに過ぎなかったが、「赤」のレッテルを貼られてしまうことになった。

その厳しい取り調べの中、「学校で尊敬する先生の名前は」という質問があり、問われた全員が「千喜良先生」と答えたという。このことが英之助の追放を狙っていた県知事や視学官に伝わった。彼らは、この事件の背後には英之助がいるので岩手県から追放すべきだ、と主張したのである。

激しい留任運動

だが、英之助はこの思想には無縁であり、主調は単なるこじつけであることは明白であった。そこで別の理由が持ち出された。

英之助は自ら管理する師範学校の寄宿舎で、生徒たちの生活を快適にするため、さまざま工夫していた。その一つに喫茶室を作って女性店員を置いたということがある。知事らは生徒を軟弱化する行き過ぎた行為であると批判し、佐藤視学官が文部省に働きかけて、沖縄に転任させることに成功したのである。

32年の夏休み中に、沖縄女子師範学校教諭兼舎監として転任することが英之助に命じられた。

9月の新学期に入り、このことを知った師範学校の生徒たちは憤激し、激しい留任運動が始まった。600人の在校生全員が血判を押した留任嘆願書が一夜のうちに作られた。

県に陳情してもらちが明かないので、在校生たちは文部省に陳情するため、8人の代表者を上京させることにした。それを察知した県側は各駅に私服警察官を配置して師範生を汽車から引きずり下ろしたが、変装するなどした数人の生徒が文部省に到着した。だが転任を阻止するには至らなかった。

寄宿舎で開かれた送別会は、全生徒のおえつと号泣であふれ、外からも聞き取れるほどであったという。出発の際の盛岡駅でも全生徒、さらに卒業生多数が集まり、校歌を泣きながら歌って見送った。英之助にとっては理不尽で不本意な転勤であったが、これだけ教え子たちに慕われたことは教師冥利に尽きるだろう。

沖縄でも英之助はめげることなく、持ち前の行動力を存分に発揮する。千喜良英之助の追悼文集「千喜良英之助先生 遺稿と追憶」は260ページを超える本である。ところが、そのうち沖縄時代の章は第一高等女学校時代の同僚や教え子による座談会が2ページ、元第二高女教諭竹野光子さんの手記が2ページと、わずか4ページしかない。

太平洋戦争末期の沖縄戦では20万人を超える人命が失われ、沖縄本島中南部の数々の建築物や史料の多くが灰じんに帰した。英之助が勤務した学校は壊滅してしまい、戦後復興されることなくその歴史は途切れてしまった。こういう事情もあり、沖縄関連の分量は極端に少ない。だがそれでも沖縄での英之助の活躍をうかがい知ることはできる。

盛岡時代に長年住んで内加賀野小路の長屋。よく生徒が訪ねてきたという。

先進的教育実践

座談会によれば、英之助は1カ月にわたる本土(沖縄県以外の日本各地を沖縄ではこう呼ぶ)修学旅行に生徒たちを引率したという。英之助が日程も組み立てたらしい。

戦前、修学旅行は学校行事の中でとりわけ重要なものとして位置づけられていた。特にこの時代は日本人としてのアイデンティティーを自覚させるために京都・奈良・伊勢神宮を目的地とすることが多く、日本全国から、そして海外植民地からの修学旅行生が見学に訪問したものである。修学旅行は、元々琉球国王が元首であった沖縄県民をいわば「皇民化」するために有効な手段であったろう。

ところが英之助は、健康上の都合で修学旅行に参加できなかった3人の生徒を、わざわざ夏休みに引率して本土旅行に連れて行ったそうだ。この行為から、英之助はおそらく「皇民化教育」といった目的を超え、生徒のため、といった純粋な気持ちで引率したのだろうと私は考える。

また、岩手時代と同様に、寄宿舎の舎監として生徒と親しく接した。さらに同窓会感を建築することになった際には、英之助自らが設計も担当し、当時としてはあか抜けた建物が完成したという。屋根をスレート葺きにしたため、伝統建築の琉球瓦に比べ断熱効果が足りず、室内は暑かったとのことである。

34年10月から翌年3月までは国民精神文化研究所の研究員となり、いったん上京した。そして沖縄に戻って間もなく県立第二女子高等女学校の校長に就任した。

ところが、翌36年4月、放火によって校舎が火事に遭った。当時教諭として勤務していた竹野さんの回想によれば、教室の8割を焼失してしまったという。

英之助は再建予算の獲得に奔走し、速やかに工事が始まった。その際、最初に建てられたのが裁縫室三つと作法室、家事室だ、どちらかというと、男子に比べて女子教育を軽視する空気のあった地元の人々を驚かせたという。さらに、沖縄唯一のオーケストラも組織したといい、先進的な教育を沖縄の地で実践しようとしていたことが見て取れる。

ところが、41年5月母校の山形県立米沢興譲館中学校長(米沢夜間中学校長を兼務)に任ぜられる。「千喜良英之助先生 遺稿と追憶」所載の年譜によれば、英之助が那覇港を船で出発する際には、別れを惜しむ沖縄の人々が詰め掛け「千里離りょと思いは一つ」という歌がいつまでも歌い続けられたという。

この年12月、太平洋戦争が始まる。妻のぶさんの回想によれば、英之助は自身の勤務していた両女子校の生徒たちが沖縄戦に動員され(いわゆる「ひめゆり学徒隊」)、多くの命が失われたことを悲しんでいたという。

英之助自身は太平洋戦争末期の45年には徴兵され、東京、宮城の石巻・多賀城、山口県などを転々とするが、敗戦後の9月10日に解除、教職に復帰する。

翌年山形県視学官となる。 

沖縄県立第二高等女学校の正門

山形大学術研究院教授 山本陽史

2023年12月24日山形新聞より