千喜良英之助(ちぎら・えいのすけ)

東京高等師範学校時代の千喜良英之助

教育者。1896(明治29)年、南置賜郡南原村の芳泉町(現米沢市)に生まれる。祖父与惣は山上村長、父藤作は関根小の教員。旧制米沢中(現米沢興譲館高)に入学、1年先輩に浜田広介と我妻栄がいた。東京高等師範学校(現筑波大)卒業。長野県立大町中(現長野県大町岳陽高)教諭となった後、東京高師専攻科で学ぶ、その後、岩手県師範学校教諭、盛岡市仁王尋常高等小校長、沖縄県女子師範、沖縄県立第二高等女学校長、米沢興譲中校長を歴任。戦後山形県視学官に就任、そして再び興譲館の校長に復帰、新制高校に移行後も校長。米沢女子短大初代学長。山形県教育委員を務める。1965(昭和40)年没。享年68。

クラス編成を男女混合にした。現在では当たり前だが、英断と受けとめられた。

米沢出身の千喜良英之助は、大正末から戦後の日本の教育界に大きな足跡を残した教育者である。没後、その遺徳をしのんで「千喜良英之助先生 遺稿と追憶」が編さん・出版された。本稿ではこの本を参考としながら、彼の生涯を跡付けていくこととする。

英之助は、関根小校長であった藤作の次男として生まれた。千喜良家には子供が6人いて、校長の給料だけではやりくりが大変で、養蚕や畑作で収入を補っていた。

養蚕は人手が必要で、しかも重労働である。英之助は幼い頃から養蚕の手伝いや弟・妹の面倒をよく見た。米沢中(現米沢興譲館高)に進学してもその習慣は変わらなかったが、英之助は自分の家よりもさらに貧しい家が多くあることを知る。

英之助より4最年少の弟・三郎の回想によると、ある時、父がある人に金を貸したことがあったが、その人は返済できなかったため、金の代わりに息子を千喜良家の桑摘み作業(これは養蚕の中でも特に大変な重労働)によこした。英之助は父に「親の借金は親の責任であり、息子には働いた賃金を払うべきだ」と主張し口論となった。結局は父が折れ、英之助の主張の通り、その子に賃金を支払ったことがあったという。

広介の家に下宿

千喜良が浜田広介にあてた書簡

英之助は米沢中3年の頃、18世紀フランスの啓蒙思想家ルソーが自由主義教育を主張した「エミール」を読んだことで、教育者になって貧乏な農民の味方になる人、農村の抱える問題解決のリーダーを育てようと強く考えるようになったという。1915(大正4)年に中学校を卒業して上京、一足先に東京に出て早稲田大に在籍していた高畠町出身の童話作家・浜田広介が借りていた一軒家の三畳間に下宿して予備校に通った。

翌年、東京高等師範学校(現筑波大)に入学する。高等師範学校は中等教育(旧制中学校・高等女学校・師範学校)の教員を養成する学校で、学費は全額公費でまかなわれた。その条件として、卒業後一定の期間、教職に就くことを義務化していた。家庭の経済状況が思わしくない英之助の進学先としてはうってつけである。

余談だが、かつての米沢では、長男は海軍兵学校をはじめとする軍の学校に進学して職業軍人を目指し、次男以下は師範学校を経て教師になる傾向があったと言われる。

高師では博物学を専攻し、博物と農業の教師を志した。博物科は戦前の小中学校にあった教科で、動植物・鉱物について学ぶ。現代で言えば理科に分類される教育分野である。

在学中、1年間陸軍に志願兵として入隊し、21年に卒業した。長野県立大町中学校の教諭になり、博物科を教えた。当時の中学校の教師は全国各地に赴任し、異動した。英之助は教育現場で理想と現実のギャップを感じ、高師の専攻科(本科卒業生に対し、より高度な教育を施す課程)の修身教育科に入学した。

修了後、岩手県師範学校の教諭として盛岡市に赴任。付属小学校の主事となった。26年には同市の仁王尋常・高等小の校長も兼任した。仁王小は師範学校付属を補完し、教育実習などを受け入れる「代用付属」であった。それまでの付属小が女子師範学校の付属となったことに伴って、仁王小が師範の付属の役割を担うことになったのである。

続いて師範学校の舎監となり、寄宿舎の大改革を行った。生活即教育という見地から、農場・精米工場・洗濯工場を設けた。さらに、31(昭和6)年に学校にプールを完成させた。これは海洋国日本として泳げない教員がいなくなるようにという意図であった。工兵隊に手ほどきを受け、英之助は率先して自ら土を掘り、セメントをこねた。生徒たちも総動員され、3カ月で完成させた。

大正末から昭和初年にかけての盛岡時代、英之助は当地の初等教育の中心人物として縦横無尽の活躍ぶりを見せる。具体的には、時代に先駆けた新しい行事や制度を次々に打ち出した。仁王小時代の同僚であった多田恵三氏によれば、以下のようなものであった。

学校経営を議論

まず、学校の運営を合議制にしたことが挙げられる。戦前は学校長が学校運営を一手に担い、独裁するのが常であった。だが、英之助は「学校経営委員会」を設け、先輩後輩の区別なく、校長も一委員として参加し、学校経営の方針について論理的に納得するまで議論した上で議決するようにした。しかも、激しい議論をしても、結論が出るとその後の人間関係にはしこりを残さなかったという。

また、26年度の新入生のクラス編成を男女混合にした。現在では当たり前だが、当時はクラスはもちろん、昇降口や雨天体操場も分けるのが常識だったが、英断と受けとめられた。

さらに、27年に音楽に合わせて体操を行うことを提唱した。音楽と体育の先生に指示し、毎日の朝礼の際にオルガン伴奏で体操をさせた。音楽と体操が結びついた「ラジオ体操」が放送されるようになる1年半前のことであった。同じ頃、赤十字病院の看護師を小学校の衛生室(今でいう保健室)に常駐する仕組みを作った。今日の養護教諭の先駆けである。

他にもさまざまな改革を行い、新風を巻き起こしたが、大正デモクラシーの時代から一転、国家主義的・軍国主義的な色彩は強まっていった。それゆえに英之助の自由主義・民主的な学校運営に対し、県の教育行政担当者の間で批判の動きが起きた。

27年4月、県の学務課長を先頭に、県の視学(教育現場の指導監督に当たる職)総出での視察があった。彼らは分担して仁王小の教育の問題点と彼らが考えることを現場で徹底的に洗い出し、厳しく批判した。ところが、英之助をはじめ全教員が一致して反論し、県側を論破してしまったという。

だが、英之助の進歩的な教育方針への批判が消えたわけではなかった。とくに当時の県知事や県視学官は国家主義的な教育を推進したいと考えており、英之助の自由主義的な教育や学校経営は邪魔でしかなかった。そして、32年9月、英之助は突如沖縄県への転任を命じられた。英之助を岩手県から排除するという挙に出たのである。

この報が伝わると、師範学校の生徒の中から激しい留任運動が巻き起こり、岩手県の教育界は大騒動となった。

南置賜郡南原村の芳泉町(現米沢市)にあった千喜良英之助の生家

山形大学術研究院教授 山本陽史

2023年12月17日山形新聞より