山形市の民家で見つかった書簡。傍点を多用し、文章が枠外にはみ出すなど、茂吉の熱の入りようが伝わる

落第した弟子の弟に助言・書き方に心情表れる

上山市出身の歌人・斎藤茂吉(1882~1953年)の世話焼きな一面が、ありありと伝わる書簡の実物が山形市の民家で見つかった。晩年の1949(昭和24)年、南陽市の弟子黒江太郎さん(S3卒)に宛てたもので、その弟・三郎さん(S19卒)の受験失敗を受け、家族のように親身にアドバイスしている。文面は全集に収載されているものの、専門家は「文章だけでは読み取れない心情が、(文字の)書き方などに表れていて面白い」と話している。

太郎さんは宮内(南陽市)で歯科医をなりわいとする傍ら、38年に「アララギ」に入会し、茂吉の指導を受けた。茂吉は本県疎開中に、黒江家を訪ねるなど親交を重ねた。書簡は今年4月、三郎さんの次男で元防衛事務次官の哲郎さん(64)=南陽市出身、神奈川県在住=が、後に一家で移り住んだ山形市の実家で父の遺品を整理している際に見つけた。日付が印字された切手は剥がれているが、全集から49年4月29日付と確認できる。冒頭は黒江家の慶事を祝う文面だが、大部分を三郎さんの落第を残念がり、今後の対策を厳しくも熱く指導する内容が占める。哲郎さんは以前、父から「東京大学を受けたが合格しなかった」と聞いたことがあるといい、手紙の内容と符合する。

文章は「一ケ年間の戦術がいけませんでした」「来年は仙台の工科の何科でもよいから受けなさい」といった助言から、「宮内で勉強などしても到底ダメ」「君等は東京を甘く見てゐるからイカヌ」と徐々に興奮していく様子がうかがえる。言葉を強調する傍点も「○○」「◎◎」「△△」を使い分ける熱の入れようだ。斎藤茂吉記念館(上山市)の五十嵐善隆学芸員(33)は、茂吉も第一高等学校の受験で一度失敗しており「自分自身の苦労とも重なり、書きながら思いがヒートアップしたのだろう」と推察する。

手紙は半分に切った原稿用紙2枚に書かれ、「本来は1枚で済まそうとしていたが、三郎の落第のことを思い出して余った用紙に筆を執ったのでは」と推測する。体裁や言葉遣いからざっくばらんで親しい間柄も伝わってくるという。

書簡の実物の発見に五十嵐学芸員は「大切に保管してきたからこそ、こうして残った。茂吉を尊敬していた表れ」とする。哲郎さんは「この書簡が研究者らの目に触れ、茂吉先生の行動や思考、人柄を明らかにする一助になれば」と、同記念館に寄贈したい考え。

2022年8月25日山形新聞より
斎藤茂吉