我妻栄先生が友人に宛てた手紙の記事を朝日新聞と山形新聞より
深く君を思っている・・・君の努力は偉大である
戦後の民法改正で家制度の廃止などに尽力し、「民法学の父」と呼ばれる山形県米沢市出身の我妻栄(わがつまさかえ)氏(1897~1973・T3卒)が18歳のとき、同級生にあてた手紙が見つかった。巻紙に書かれた長文で、関係者は「現存する最も若いころの手紙ではないか。極めて貴重だ」と話す。
手紙はレプリカが作られ、9月29日から市内で始まる没後50年記念の特別展で掲示される。
我妻氏は教員の両親のもとに生まれ、米沢中学校(現・米沢興譲館高校)を出て上京。旧制一高、東京帝国大では首相になる岸信介氏と首席を争い、米沢で一緒に釣りをした。1960年、岸首相が日米安保条約改定を強行すると、朝日新聞紙上で「直ちに政界を退いて、魚釣りに日を送ることです」と勧告し、友にも自らの信念を貫いた。
17歳まで過ごした米沢市中央3丁目の生家は我妻栄記念館として残る。特別展の会場の一つで、米沢中で5年間一緒だった同級生の故・本田吉馬氏(元米沢市議会議長。T3卒)にあてた手紙が初めて公開される。
本田氏の息子、貞夫さん(S28卒)が相模原市の自宅で保管し、今年3月、記念館に寄贈した。本田氏を「心友」と呼び、縦18センチ、長さ2・35メートルにもなる巻紙で、7センチ幅に折りたたまれていた。
文中に「共に話し共に語りしも思えば早1年半の昔と相成り……」とあり、手紙の日にちから旧制一高在学中で18歳だった1915(大正4)年8月31日、米沢に帰ってきた際に書いたとみられる。
手紙の概要はこうだ。
人の出会いと別れはどうすることもできない。貴兄と離れて過ごしているが深く君を思っている。君も思い出の一部に私を入れてくださっていると信じている。君は禅の修養をしていると聞き、君の努力は偉大である。人世の幸福は理想に向かって一歩ずつ近づく努力の営みである――。
記念館を管理する公益社団法人米沢有為会理事で、没後50年と記念館開館30周年記念事業の実行委員会の伊藤和夫・委員長(S40卒)は「『郷里や母校のために奮闘、努力をしてそれぞれ未来の成功を期そう』と書かれ、表現は詩的で18歳の手紙とは思えない」と驚く。
特別展は記念館と市立米沢図書館で開かれ、直筆原稿や判例カード、写真などを展示。東大名誉教授で文化勲章を受章し、米沢市名誉市民として古里の子どもにかかわり続けた姿を紹介する。特別展は9月29日~10月25日と10月27日~11月22日、記念館が午後1~4時、図書館は平日午前10時、土日・祝日午前9時からいずれも午後7時まで。無料。
命日の10月21日午後2時半からは、伝国の杜(もり)置賜文化ホール(同市丸の内1丁目)で新堂幸司・東大名誉教授の講演や、我妻氏の孫で東京都立大教授の我妻学氏らのパネルディスカッションがある。
2023年9月29日朝日新聞より
我妻栄、米沢出身民法学の父・少年期、友宛ての手紙
没後50年、古里で初公開 きょうから特別展
米沢市出身の民法学者、我妻栄(1897~1973)の没後50年の節目を機に、市と米沢有為会は29日から、記念事業の一環で特別展を開催する。少年時代の我妻が友に宛てた貴重な手紙が初展示される。実物が28日、報道陣に公開された。
手紙は「本田吉馬(きちま・T3卒)宛我妻栄書簡」。縦18センチ、横235センチの巻紙に書き、7センチ幅に折り畳まれている。米沢中(現米沢興譲館高)を卒業後、上京を目前に控えた18歳の我妻が、同級生で米沢市議会議長も務めた本田吉馬に宛てたものだという。米沢上杉文化振興財団の角屋由美子室長が修復や現代語訳を担当した。
「数百里の遠方に異なる境遇の下にあっても心と心は通じ合い(中略)これを心友と呼ぶのではないでしょうか」「共に奮闘努力し郷里のため母校のため、いつの日か成功を期すべきではないでしょうか」。近県への徒歩旅行など、青春時代を共に過ごした親友への思いがつづられる。
相模原市に住む息子の貞夫氏(S28卒)が所持しており、没後50年の節目で記念館に寄贈した。記念館の所蔵品に10代で書いた手紙はなく、伊藤和夫実行委員長(S40卒)は 「若い時の生き方を知る史料は貴重」と説明した。
特別展は市立米沢図書館を第1会場、米沢市中央3丁目の我妻栄記念館を第2会場に、29日~10月25日、同27日~11月22日の日程で開催。書簡のレプリカを記念館に展示する。
我妻は、現代の民法学の基礎を築き「民法学の父」と呼ばれる。米沢中を経て東京帝国大学法科大学で学び、同大の法学部教授と法学部長を歴任し、文化勲章も受賞した。
2023年9月29日山形新聞より