60年安保闘争のさなか、憲法問題研究会主催の「民主政治を守る講演会」で講演を終える我妻栄=東京都千代田区で1960年6月12日

戦後を代表する民法学者、我妻栄(わがつまさかえ)(1897~1973年)をご存じだろうか。法律学に社会学的手法を取り入れ、民法改正では「家制度」の廃止に重要な役割を果たした。60年の日米安全保障条約改定の際には、旧知の岸信介首相に即時退陣を求めるなど、権力者に対しても学者的良心から厳しく苦言を呈することをいとわなかった。出身は山形県米沢市。昨年3月まで米沢通信部長を務めていた私にとっては、母校・米沢興譲館高の大先輩であり、郷土の偉人でもある。今年、没後50年を迎える。しかしながら、法律に携わる人以外の間では、その業績が広く知られていないことが残念でならない。

米沢市にある生家を一部改修した我妻栄記念館は、全国から多くの法曹関係者や学生らが訪れる聖地となっている。民事訴訟の要旨を記した約7000枚の「判例カード」には圧倒される。矢尾板操館長は「今では当たり前になっている『万民平等』の考え方が定着したのは、先生の貢献が大きい」と話す。

原発事故賠償に高い先見性発揮

2011年に起きた東京電力福島第1原発事故では、原発周辺の住民16万人が避難し、今なお3万人以上が避難生活を送っている。その損害賠償を巡る問題で、再び脚光を浴びたのが、我妻だった。

1958年、政府は原子力の安全利用促進をもくろみ、我妻をトップとした専門家チームを設置し、原子力災害の補償について助言を求めた。我妻は「被害者の一人も泣き寝入りさせない」との立場から「国家が補償すべきだ」と答申した。しかし、補償額が青天井となるのを嫌った大蔵省(当時)はこれを認めず。原子力損害賠償法では「事業者賠償」が原則となり、我妻の考えは反映されなかった。

それから半世紀。福島原発事故に直面し、政府関係者や専門家らがむさぼるように読んだのが、この「我妻答申」だという。被災者救済と復興を同時に実現させたい政府は、東電を実質的に「国有化」し、賠償を担うことになった。「勝利者は我妻だったと言えるかもしれない」。経済学者の竹森俊平氏は著書「国策民営の罠 原子力政策に秘められた戦い」にそう記し、我妻の先見性を評価している。

日本学術会議に文化・平和を託す

2020年に政治介入問題で揺れた日本学術会議の発足にも、我妻は深く関わっている。1948年に日本学術会議法要綱をまとめ、初代の亀山直人会長を副会長の立場から支えたのだ。

「わが軍、わが政府の八紘一宇の考えの愚かさよ。(中略)その無謀、無知、実に憂うべきである。軍そしてわが政府らは、なぜ世の識者、学者らの意見、知識を聞かないのか」

これは、我妻が第二次世界大戦中の43年に帰郷し、講演した際の発言だ。同郷の医師が手記に残していた。科学こそ文化・平和の礎であるという我妻の思いは、日本学術会議法の前文にも刻まれた。

「科学が文化国家の基礎であるという確信に立って、科学者の総意の下に、人類社会の福祉に貢献し、世界の学会と提携して学術の進歩に寄与することを使命とし、ここに設立される」

政府は、今年の国会へに法案提出は見送ったが、今なお会員の選出方法など、学術会議の在り方を見直す法改正を検討している。学術の本質から外れたせめぎあいを、我妻は泉下で苦々しく感じているのではなかろうか。

若き日に発症した脊椎カリエスの影響で、晩年までつえを手放さなかったが、海外での活動も旺盛にこなしていたという。郷里の興譲小では「守一 無二 無三」と書かれた色紙が残っている。「一を守り、二なく、三なし」と読む。我妻にとって「一」は「民法学の完成」であったであろう。東京大学長や最高裁判所長官への推挙を断り続けたというエピソードからも、そのことが読み取れる。

法を通じ「公正・公平」を問い続けた生涯だった。異なる意見にも謙虚に耳を傾け、誰にでも分け隔てなく接し、人をとりこにしたという。その人柄を慕った教え子たちは、行政機関や法曹界、学術界などで活躍し、戦後日本の発展を支える人材となった。

今年の命日の10月21日、米沢市でシンポジウムの開催や銅像の除幕式が予定されている。我妻亡きこの50年の間に、時代は大きく変わった。家族観や性の多様性を認める世相が広がる一方、ネット社会の下でゆがんだ差別を危惧する声も聞こえる。我妻なら今、何を思うだろうか。かつてのように、現実の中からファクターを拾い集め、社会現象を探求するに違いない。新時代に立ち向かうヒントが、そこにあると思う。

毎日新聞佐藤良一記者(S52卒)定年再雇用
退職前の最後の記事
2023年9月21日毎日新聞「記者の目」より