終戦から長い年月を経て見つかる不発弾や砲弾。戦争が残した「負の遺産」は人々の戦争の記憶を呼び起こす。村山市白鳥に住む青柳徳治さん(77)と大沼六右エ門さん(83)が思い出すのは、今のウクライナのように集落の上空を砲弾が飛び交った日々と、不発弾で同年代の子どもが命を落とした事故だ。「米軍が演習で、バーン、ドーンと弾を打ち込んだんだ」。2人は近くの山を指さした。

1945(昭和20)年9月、米軍が本県に進駐し、葉山山麓東を砲射撃用演習地に選び、大高根村や戸沢村(ともに現村山市)などにまたがる約4700ヘクタールが接収された。56年の返還まで、白鳥など一帯は三カ所の砲座と着弾地に挟まれた「弾道下の村」だった。

50年に朝鮮戦争が始まると演習は激しさを増した。砲弾が空気を切り裂き、土煙を上げる音が響く。当時、6歳と11歳の2人にとっては「当たり前の日常」だったが、破片が民家に突き刺さる被害などが頻発。演習が休みの土曜午後と日曜になると集落内外の大人、子供が砲弾の破片を拾いに立ち入り禁止の着弾地に次々に駆け入った。

地雷のように、不発弾が何かの拍子で爆発するかもしれなかった。青柳さんは「親に禁じられていた」が、大沼さんは「行ったことがあった」。金属不足の時代、真ちゅうや鉄は高値で売れた。皆、生きるために必死だった。

51年6月には恐れていたことが起きた。不発弾が暴発し、女の子と男の子の2人が死亡、1人がけがをした。青柳さんは小学校の朝礼で悲報を知った。あの子、死んじゃったんだー。言葉が出なかった。

今も世界では砲弾で幼い命が犠牲になっている。「年も男、女も関係なく殺されるのが戦争だからよ、仕方ねえ」。青柳さんはそうつぶやくと、すぐに続けた。「だから、絶対に始めてはいけないんだ」。2人は集落の「平和の森」に立ち静かな空を見上げた。

2022年8月15日山形新聞より

学びやにも砲弾は眠っていた。94年11月8日夕、米沢市の米沢一中グラウンドの造成現場で、米軍のものとみられる砲弾が見つかった。かつて進駐軍の兵舎として使われた旧校舎跡だった。約45年間、生徒らが青春時代を送ったその下で、戦争の遺物は沈黙を続けていた。

教頭だった鈴木登さん(78・S37卒)=米沢市御廟2丁目=は立ち入り禁止の対応などを冷静に進めたが、時がたつにつれ、恐怖が大きくなった。「一つでも炸裂していたら・・・。事故がなくて本当に良かった」。当時を語る表情は硬い。

旧校舎には45年10月から47年3月にかけ、米軍が駐留。46年には炊事場から出た火が弾薬庫にも回り、爆発が起きた。破片は近くを流れる松川を越えて飛散したという。その跡だろうか。旧校舎の壁に放射状に穴が残されていた。

ウクライナでは幼稚園や学校なども標的にされ、20年前の砲弾騒ぎと比べようもない混乱と惨状が広がる。不発弾も問題となっており、時を超えて、その地に住む人にとって恐怖であり続ける。鈴木さんは教師の顔で優しく、そして厳しく問い掛ける。「今起きていることは大人たちの責任だよね。どうしたらこういうことがなくなるのだろうか」

2022年8月15日山形新聞より