交渉力が魅力・先にある意義見いだす
明治、大正、昭和初期に活躍した米沢市出身の建築家伊東忠太(1867~1954)の魅力を深く理解しようと、昨年10月「伊東忠太の会」を立ち上げました。忠太は建築家の顔ばかりでなく多様な顔をもった巨人。まだまだ解明されたいない「謎」があるから魅力です。
忠太は米沢座頭町(現在の米沢市中央6丁目)に生まれました。幼少期から母花子のおとぎ話を聞いていた忠太は、そこに自分なりの創意を加え、弟の三雄蔵(のちに山形の名家村井家に養子に入り実業家となる)に話して聞かせていました。父祐順は厳格な軍医でした。「忠太自画伝」には、父の勤務地である東京や千葉の佐倉でやんちゃな少年時代を過ごしたとあります。彼のユーモアや緻密さの源泉となったのでしょう。
忠太はそれまでの「造家」という用語を「建築」と改めました。主な建築・監修作品は明善寺(山形市)、上杉神社、上杉伯爵邸(以上米沢市)、東京大学正門、明治神宮、靖国神社、一橋大学兼松講堂、築地本願寺、東京都慰霊堂、大倉集古館(以上東京都)、熱田神宮(名古屋市)など。焼失したものもありますが、多数が現存しています。コンクリート造りの作品にはかわいい妖怪がくっついているのが特徴です。沖縄の首里城や古社寺の保存にも力を注ぎ、文化財保護法の基盤をつくりました。
彼の魅力は「人たらし=交渉力(コミュニケーション力)」だと思います。文部省の役人を説得し、3年3カ月の間、西欧ではなくアジアを探検しています。当然旅費が必要ですから文部省からだけではなく、大谷光瑞(浄土真宗本願寺派)やトルコ在住の山田寅次郎、中村栄一(米沢出身)らとも親しくなり世話になっています。探検の結果として中国における「雲崗石窟」の発見、大胆な学説「建築進化論」に結実しています。しかし建築進化の実証は頓挫してしまいますが。
忠太が徹底したのは▽分からないことを徹底して探求する▽方法を学ぶだけでなく、その先にある崇高な意義を見いだす▽コミュニケーションを大切にする-といった姿勢を崩さなかったことだと思います。
現在の学校教育で「探求」は必須となっています。知識偏重ではない教育です。文部科学省によれば、探究的な学習とは「体験活動などを通して課題意識を持つ」「必要な情報を取り出し収集する」「収集した情報を整理、分析し思考する」「気付きや発見、自分の考えをまとめ、判断し、表現する」ことです。忠太はまさに明治初期からそのような学習、研究を行っていたと思います。
「伊東忠太の会」は建築の研究はもちろんですが、忠太の「探求の姿」に親しめるよう子ども向けの活動も考えています。妖怪好きにちなんだ「わたしの妖怪」作品展や、米沢の街角に妖怪像を設置したオリエンテーリングなども考えられます。大人向けの活動としても、晩年の置賜や山形市での活動を知ったり、実際に忠太を知る方から聞き取ったりとたくさんあります。
壮大な夢ですが「伊東忠太建築記念館(仮)」の建設も妄想しています。多くの偉大な建築家を輩出している本県にふさわしいものだと確信しています。
(米沢市在住)
2023年4月28日山形新聞より