高畠町で門外不出とされてきた「河童の詫び証文」が28、29日の両日、地元で初めて公に展示される。カッパが悪事をわびて、再犯をしないと僧に誓ったといわれる証文。子どもたちを水難から守る御利益があるとされてきたものだが、その存在は長らく忘れられていた。

川で悪事、再犯せぬ約束・・・子の水難防ぐ言い伝え

不動院の河童の詫び証文を保管してきた神主宅=高畠町糠野目

この詫び証文はもともと、町内の不動院という名の寺が所蔵。神仏分離政策が進められた明治時代初めに廃寺となった。

当地の神社を統括していた神主の男性が5年ほど前に亡くなり、自宅が空き家になっていた。町教育委員会が遺族の了承を得て今年8月20日に神主宅にあった不動院の文化財や史料を調査し、箱に収められた掛け軸を見つけた。

掛け軸を広げると、赤茶色に塗られたわび証文が貼られていた。大きさは縦約50センチ、横約30センチ。赤茶色の色素はところどころがはげ落ち、文字は確認されていない。

わび証文の下には、いわれを記した紙が貼られていた。書かれたのは江戸時代後期の文化14(1817)年で、当時の不動院の住職の署名があった。

遺族から掛け軸の寄贈を受けた町郷土資料館の青木敏雄館長(67・S50卒)らが説明文を現代文に訳した。かいつまむと、こんな話だ。

掛け軸にされた「河童の詫び証文」と青木敏雄・高畠町郷土資料館長(S50卒)。証文は上、いわれの説明文は下に配されている=高畠町安久津

安土桃山時代の天正14(1586)年、不動院の住職が馬洗い場で馬の足を洗っていたところ、馬が突然飛び上がった。翌朝、馬屋で全身に毛を生やし、両目まで垂れる長い髪の怪しい動物を発見した。正体は河獣(カッパ)。両手を合わせて頭を下げる姿が命乞いをしているように思った住職は、命だけは助けてやり、カッパは三度礼を言って姿を消した。

江戸時代前期の寛永19(1642)年7月中旬ごろ。このカッパが再び現れ、こうべを垂れて鎌の刃先を首に当てて自殺を図ろうとした。住職は「この郷に生まれた男子が水難に遭って命をなくすことが起きないように約束すること」と言って経文を唱えると、涙を流しながら謹んで聴いていたカッパは鎌で自分の左手の指3本を切り、滴る血を全身に付けて馬屋の窓からもぎ取った紙に押し当てた-。

青木館長は「川で馬に悪さをしようとしたカッパが住職に許され、二度とそのようなことをしないと誓った証文とされます」。民俗学者の柳田国男が『遠野物語拾遺』でも記録している通り、カッパのわび証文の伝説は県内各地にもあるが、それが紙として残存している例を青木館長はほかに聞いたことがない。

不動院があった町西部の糠野目地区では、わび証文を信仰の対象にした人もいたようだ。

町教委の社会教育専門員、星忠徳さん(62・S55卒)によると、星さんの父が子どものころ、近所の最上川で川遊びができる夏になると、証文にお参りし、水難事故に遭わないように祈ったという。

高畠町糠野目地区を流れる最上川

神主宅の隣で電器店を営む高橋正春さん(69)は、小学生のころ、最上川の川遊びで2度ほど溺れかけたことがあった。「どうにか浅瀬に移って足を川底につけることができ、助かりました。わび証文の御利益でもあったのでしょうか」

1960年代、町の小学校にプールが設置され、遊泳場所は川からプールに変わった。さらに、子どもだけで川遊びをしないように学校が指導し、水難事故の防止が呼びかけられた。

高橋さんは言う。

「子どもたちは川遊びをほとんどしなくなり、わび証文に参拝する人がいなくなったのだと思います。わび証文は門外不出の宝物で、外部で公開されることもなかったので、地域の人たちも存在を忘れてしまったのでしょう」

「河童の詫び証文」の掛け軸は糠野目生涯学習センターで28日午後1時~同5時、29日午前9時~午後2時、地区の文化祭の特別展示で鑑賞できる。

また、町郷土資料館は11月にも、神主の遺族から寄贈された不動院の木造不動明王像などとともに展示する予定。入館料は一般100円、学生50円、高校生以下無料。休館日は祝日。8~11月月曜。12月~翌年7月土曜・日曜。

2023年10月26日朝日新聞より