5.大分・泉福寺
九州全体での運動に思い
思いがけないはがきが舞い込んだのは、2004年の初めだった。無着成恭さん、ときさん夫妻が前年12月半ばから、千葉県多古町の福泉寺から大分県国東町(現国東市)の泉福寺に来ているという内容だった。大本山総持寺の特命を断り切れずにあわただしく来てしまったという。
翌05年9月12日の泉福寺の開山忌に合わせて私は動いた。「これがお会いできる最後になるかもしれない」という思いがあった。
空港からタクシーで向かう途中、ドライバーは「泉福寺に無着さんがおいでになりよったから、話を聞きに行ったことがある」と言う。「こども電話相談室の無着さんは人気あったもんなあ。私は運転手の前は工場に勤めておったで。工場ではラジオをかけっぱなしにして聞いちょった」
砂利をきしませて泉福寺に着いた。住職の住まいを中心に、いくつかの宗教的建造物が急勾配の回廊で連携している。国指定文化財の開山堂、仏殿、道元が持ち帰ったとされる宋版宏智録(そうはんわんしろく)6冊が存在し、5千坪の境内全体が県指定の文化財になっており、古い歴史と格の高さを物語っている。
開山忌当日。「ごぜんさま、ごぜんさま。」準備のために前日から詰めている若手僧侶2人の声が大伽藍に響いていた。住職の無着さんは、続々と上がってくる僧侶一人一人と短いあいさつを交わす。ときさんは台所を指揮していた。無着さんは、わずかな会話からでも国東における自身の役割を感じ取ろうとしていた。私は全身を目にし耳にしする。大柄な無着さんが年を重ね、会うたびに小さくなっていくように見えた。77歳になっていた。
ときさんが編集する「国東だより」に住職の思いが垣間見える。
「生きてはいまいが三年日記買ふ(成恭)―オレが今頭を使っているのは、この泉福寺をどうするかということだ。泉福寺の末寺が九州全体に600ヶ寺あるともいわれている。また(開山した)無箸妙融の法孫が600人とも言われている。末山や法孫がうまく組織され、自分たちの伝道のよりどころとして機能したら、ちょっとおもしろい運動ができるかも知れない。しかしそうするにはオレは年を取りすぎた―とシンから思う。けれどもそれはそれ。死ぬそのときまでなにかしていますから応援してください―」
明けて、ときさんの希望で別府市にある高齢者用マンションの見学に同行した。無着さんが運転する車に乗り向かう。「黙っていたら無着成恭は、これまでの蓄えを全部この寺につぎ込んでしまう。方丈が死んだら出ていかなければならない私はどうなるの?」。ときさんは、そう話した。
私は「無着さんは『ごぜんさま』と呼ばれているんですね」と投げかけた。在野精神を貫いている無着さんに似合わないように思えたからだ。無着さんは「ごぜんさまというのはね、午前0時を過ぎてから帰ってくる酔っぱらいのことをいうのだよ」と駄じゃれを飛ばし、車内は「あははは、あははは」と笑い声がはじけた。と思ったら、急にまじめな声で「この辺りでは泉福寺の住職を『御前様』と呼ぶ習慣がある」と続けた。
私たちはいっとき、開山忌の緊張から解き放たれていた。
(フリーライター・香川潤子、山形市・S49卒)
2023年11月27日山形新聞より