6.教育者

教え子の中に生きる信念

教育者としての無着成恭さんを検証しないでは、無着さんについて書けない。

山元中(上山市)で生徒たちと実践した「生活つづり方」のクラス文集をまとめ、1951(昭和26)年に出版した「山びこ学校」の印税は教え子の1人が窓口になり「きかんしゃ同人金融部」に蓄えられ、教え子たちの学費や病気治療、出産、家の修繕などに貸し出されていた。その役割を終えた2004年、山元小中学校の正門脇に山びこ学校記念碑が建てられた。碑の除幕式の2年後に小学校、その3年後に中学校がそれぞれ閉校している。

「山びこ学校」以後、東京・明星学園での教育実践記録も何冊か刊行されている。教頭になった無着さんは、特別に「詩の授業」を受け持ち、子どもたちとじかに接していた。

明星学園の授業記録「詩の授業」の中で、教え子たちは無着さんの人柄を「自己アピールが強い」「自分をがんと出してくるやなやつ」「むっつりスケベでなく、はっきりスケベの先生が好き」と自由に表現している。子どもたちは教師をよく見ているものだ。辛辣なあだ名をつけて笑うなどする。無着さんは自分を批判的に見る子どもを包み、その言動を楽しむ大きさを持っていた。

仏教系の月刊誌「大法輪」の記事制作に当たり話を聞くため、半ば無作為に教え子4人を選んだ。山元中出身の2人は都会に住む方と地元に残った方、明星学園の卒業生、僧侶の弟子である。「無着成恭さんを取材している。周辺取材としてお話を伺いたい。あなたの言葉は掲載されないか、参考として1行程度載せることになります」こんなふうに申し込んだが、皆協力してくれた。

話を聞いた全員に九州での無着さんと来し方を記した掲載紙を送ると、次々と返事が来た。周辺取材を申し込んだ人から礼状が届くことはまずない。驚いた。

無着さんは子どもを点数だけで評価し、ロボット化するのをやめようという運動を立ち上げたものの、学校や父母会と意見が合わずに明星学園を去った。「私は負けたんです」と繰り返していたが、無着さんの思いは教え子たちの中に生きて働いていた。取材に協力した1人は「先生に教わったのは、世の中に対する批判精神ですね。それから決して欲張らない。豊かさを分け合うこと」と言った。私は「負けてなんかいない、負けてなんかいないよ、無着さん」と叫んでいた。

(フリーライター・香川潤子、山形市・S49卒)

2023年12月4日山形新聞より