教育評論家で僧侶の無着成恭さん(山形市出身)が7月21日に96歳で亡くなりました。無着さんが山形を離れてから交流のあった香川潤子さんが思い出をつづります。

1.出会い

大きな声の人、私の子を案じ 

私が初めて無着成恭さんにあったのは1987(昭和62)年冬。夜の帳が落ちる時刻、赤坂へ急いだ。街路樹の枯葉が舞う。無着さんは当時60歳。TBSラジオの長寿番組「全国こども電話相談室」の回答者をしており、番組終了後に月刊誌の企画「日本の経済と教育を語る」の取材を受けてもらうことになっていた。

無着さんは、わっし、わっしと、約束のレストランに現れた。作務衣、素足に雪駄、まさに雲水の姿をしていた。小さな雑誌社で働く私は上役の命令で取材することになったが、大きな声や存在感に圧を感じ、苦手意識を抑えて対面していた。順に質問をぶつけ、一通り話を引き出すと、礼を言って帰り支度をした。その際に私は「これから子供を迎えに行く」とポロリともらした。

すると、無着さんはグイッ、と身を乗り出して聞く。

「この時間まで、誰があなたの子どもをみているんですか?」

大きな声だった。

「同じ保育園に行っている子供のお母さんに、預かってもらっている」と答えた。苦手ではあったが、この人は初めて会った私の、見たこともない子どもを案じていると思った。

この時の取材に無着さんは、このように答えている。「子どもが悪くなる原因はさまざまあるでしょう。しかし、一つを挙げるとすれば『経済の論理が先行』していることです。アイヌ民族の場合、川に行けばシシャモが捕れ過ぎるほど捕れるのですが、腐らせてしまいますから必要以上に捕らなかったのですよ。つまり、必要以上に捕らないことが、食べ物を保障していた。ここには明らかに、命に手を合わせる思想が働いています。ところが、日本人が北海道に入って、シシャモやサケを捕れるだけ捕って、お金に替えて貯蓄することを教えた。すると結局捕りつくしてしまうのですね。経済の論理が働いてしまうと、完全に命を絶滅させてしまう」

さらに続けた。「子どもが生き生きとして純情だというのは、その子どもをその子どもなりに評価するからです。評価の基準が多元論なのです。ところが、タンポポはタンポポとして、見事に花を咲かせてみせるという哲学がなくなりましたね」

無着成恭(むちゃく・せいきょう)

1927(昭和2)年、本沢村(現山形市)の沢泉寺の長男として生まれる。山形師範学校卒業後、山元村(現上山市)の山本中に赴任し、生徒に生活の「なぜ」を考えさせる「生活つづり方運動」に取り組んだ。クラス文集をまとめた「山びこ学校」を51年に刊行し、映画化されるなど注目を集める。その後上京し、駒沢大仏教学部に編入、卒業後は東京・明星学園で教壇に立った。定年を待たずに同校を退き、千葉県多古町の曹洞宗福泉寺、大分県国東市の泉福寺の住職をそれぞれ務めた。

筆者:香川潤子(S49卒)

香川潤子さん(S49卒)

かがわ・じゅんこ:フリーライター。1955(昭和30)年、川西町生まれ。出版社勤務を経て執筆活動に入る。32歳で描いた児童書「愛で世界を照らした人々」(日本教文社)が教科書に掲載された。本名鈴木洋子。山形市在住、67歳。

2023年10月23日山形新聞より